「本当の自分のおうちみたい」
「寒さもしのげるし、快適です。本当の自分のおうちというか、部屋みたい」
地震で自宅が全壊した石川県輪島市の保(ぼう)靖夫さん。涙ぐみながらこう話しました。
震災後、所有する農業用ハウスに自主避難していましたが、3月上旬からはハウスの隣に建ててもらった「インスタントハウス」に妻と2人で過ごしています。
インスタントハウスとは、角が立っている泡立てたメレンゲにも見える、白い簡易住宅のことです。
防水性の白いテントで覆われ、高さは4.3メートル。床面積は20平方メートルで、最大10人ほど入れます。
被災した人に落ち着けるプライベート空間を提供しようと、1月上旬から輪島市内に建てられはじめました。
保さんは近所の人らと農業用ハウスに避難する中、口コミでインスタントハウスのことを知り、「ここにも建ててほしい」と思ったそうです。
2月下旬、希望がかなって3棟が建ちました。その1棟を保さん夫婦がおもに寝室として使っています。
保靖夫さん
「自分のは最後に建てていただいたのですが、やっと自分のやつだって、家ができるなっていう喜びを半分感じました」
開発のきっかけ 東日本大震災
ハウスは能登半島の被災地に160棟ほど建っています(4月10日現在)。開発したのは、名古屋工業大学の北川啓介教授(建築設計)です。
開発のもともとのきっかけは、2011年の東日本大震災でした。
地震から1か月後、宮城県石巻市の避難所になっている中学校を訪ねた北川さん。そこで小学生の男の子から声をかけられました。
「なんで、仮設住宅が建つのに3か月も6か月もかかるの。大学の先生なら来週建ててよ」
北川さん
「そのとき、私の人生は180度変わりましたね。こんなに困っている人がいるのに、仮設住宅ができるのに時間がかかるってどういうことなのかなと。子どもたちが声をかけてくれたので、素直に応えてあげたいなって心一つで動きました」
研究と開発の日々
そこから、研究と開発の日々が続きます。
まず、仮設住宅の特性の“対義語”から考えました。仮設住宅は「たくさんの職人さんが建設に関わる」、対義語は「一人でも建てられる」。こうした対になる言葉を40個書き出したりしました。
その後、ダウンジャケットから大きなヒントを得ます。
北川さん
「ダウンジャケットをまとった時に『あ、空気なんだ』と思ったんですよ。空気は私たちが行き着くところにある。しかも無料です」
人が入ることのできる空間を、空気を利用してどのようにつくるか。何百回も実験を行いました。風船や時にはシャボン玉や爆竹も使用したといいます。
最終的には、外側はカリっとしているのに内側はふんわりとしているフランスパンに着想を得て、ハウスの原型が完成しました。
シートに空気をいれてふくらませ、内側からはウレタン製の断熱材を吹きつけます。断熱材が空気の層をつくることで冬は暖かく、夏は涼しくなります。
また、柱がなくても外側のシートがしなやかな“引っ張り材”となって、頑丈さも持ち合わせています。
ここまでたどり着くのに、5年半かかりました。
海外の被災地でもハウス設置
去年2月にトルコ・シリア大地震が発生すると、北川さんは被災地へ。日本から送ってもらったハウス3棟を、現地の人と組み立てました。
「オスマントルコ時代のドームのような雰囲気」「心が安まる」と多くの人が喜んでくれたといいます。しかし、ハウスには“弱点”もありました。
北川さん
「現地の自治体のトップから『100棟お願いしたい』と言われました。でも、やばいなって思ったんですよ。1棟の値段は車が買えるくらいで……」
高い価格がネックでした。
震災で多くのハウスを建てるには、もっと安価でなくてはいけない。北川さんはその後も改良を重ねました。
外側のシートや断熱材の素材を変えることなどで、費用は約6分の1の20万円に。完成までの時間も、1時間ほどに短縮されました。
能登の“3ステップ”を重視して広める
能登半島地震の発生から2日たった1月3日、北川さんは400人以上が避難生活を送っていた輪島市の輪島中学校に足を運びました。
当時、避難所には電気が通っておらず、毛布も足りていなかったといいます。
避難している人たちがプライバシーを保って寒さをしのげるよう、北川さんはまず、持ち込んだ10棟の段ボール製ハウスの設置に取りかかりました。
合わせて、屋外用のインスタントハウスのことも説明しました。いずれ、足を伸ばして寝泊まりできる広いハウスが必要になると考えたからです。
被災した人たちから口々に言われたのは、「多くの人がインスタントハウスを使うようになるには、能登ならではの“3ステップ”が重要」ということでした。
北川さん
「1ステップは『1棟目を見てみたい』。見た上で『使ってみる』のが2ステップ。そこで気に入れば10倍、100倍のニーズが生まれる3ステップ。この“能登の3ステップ”が大事だよって言われたんですね。一日でも早く届けたいと気持ちが先走っていたんですけど、言葉のとおり各地に一つずつお届けしていたら、皆さんが見に来るようになりました」
ハウスの評判は瞬く間に広がり、連絡先を公開している北川さんのもとに直接、設置の依頼が届くようになりました。
ハウスの外枠のテントは大阪の会社に発注し、直接被災地に運んでもらいました。
ハウスの設置や断熱材の吹きつけは地元企業などに発注することで、北川さんがその場にいなくても次々と建てられるようになりました。
想定とは違う使われ方も
北川さんは避難している人に安心して過ごせる場所を届けたいという思いでしたが、意外にも多かったのは「コミュニティーの場所」として使いたいという要望でした。
輪島市中心部で、地元の仲間たちと炊き出しのボランティアをしている橋本由紀さん。
食事をとれる部屋などがなかったため、調理施設のすぐ横に1棟建ててもらいました。
橋本さん
「ご飯を食べにきた人が毎日のように使っていました。炊き出しのメンバーも打ち合わせで使いましたが、地震後にはじめて腰を下ろして話ができて、居酒屋にいったような、うちに帰ったような感覚でした。集会所や公民館が避難所になっているので、こうして集まって話せる場所があってよかったです」
寄付金を使っての設置 限界も……
被災地で多様な使われ方をしているインスタントハウス。施工費は、名古屋工業大学への寄付金ですべてまかなわれています。
4月10日までに5328万円が集まり、インスタントハウスが160棟、段ボール製ハウスが900棟ほど建ちました。
ただし、設置したハウスの倍以上の依頼が、北川さんのもとに新たに届いています。仮設住宅の建設はどうしても時間がかかるため、依頼は今後も増える可能性があります。
北川さん
「政府とか自治体とかそういったところのお金は1円も入っていない。本当に集まったお金だけで動かしているんですね。皆さんにすぐにお届けしたいところなんですけど、『もうちょっと待っていてくださいね』っていう話しかできないんですよ」
東日本大震災のあと、段ボールベッドは避難所で使われるようになりましたが、それと同じように「災害時の物資」として位置づけてもらえれば、ハウスの設置が進むのではないかとも考えていました。
しかし、被災自治体などによると、仮設住宅の建設が進むなかでハウスを公費で設置するような新たな仕組みは難しい状況だといいます。
新たな方法を模索中
仮設住宅ができる前の“簡易住宅”としてインスタントハウスを機能させたいという北川さん。愛知県の企業に協力を求めて、実費に近い価格で販売してもらうことも計画しています。
これですべてが解決するわけではありませんが、被災地からも「購入したい」という声が届いていて、今必要としている人に早く届けるための新たな方法になればと考えています。
北川さん
「設置にかかる実費のみをいただいて、販売するという形があってもいいのではないかと考えています。本当は必要な支援をもっと柔軟に届けられるような、国全体としての仕組みづくりが必要なんじゃないかと思っています」
希望にもなれば
今回の地震で被災した輪島市の保靖夫さんに、改めて思いを聞きました。
保さん
「いずれ仮設住宅ができれば、そっちに移りたい気持ちもある。でも、移ってもちょくちょく、ここ(インスタントハウスがある場所)に顔を出そうかなって思っています。ほかに避難しているみんなの顔を見たいし、輪っちゅうか、そういう感じがいい」
北川さんはハウスが人と人とのつながりを保つ役目を果たしながら、復興に向けた足がかりの一つになってほしいという思いを抱いています。
北川さん
「ハウスでほっとできる温かさや、そこに集う人々の心の温かさを感じられるでしょうし、そういったものが皆さんの中で深く、広く、信頼関係をもって次の世代にも受け継いでいけると、もっと新しい未来につながっていけるような能登半島になるかもしれない。そんなことを期待しながら、これからも尽力していきます」
名古屋放送局 記者
鈴木博子
2017年入局
高松局を経て名古屋局遊軍
記者を志したきっかけは東日本大震災。能登半島地震では、名古屋からの被災地支援の動きなどを取材