被災者の生活再建へ公助の制度も きっかけは阪神大震災 覚えておきたい「応急修理」やローン減免のガイドライン【まね得 地震とお金・後編】
熊本日日新聞
からの記事と詳細 ( 【熊本地震8年・被災者は思う⑨】大津町の上妻千穂さん(67) 南阿蘇の空気や水が恋しい|熊本日日新聞社 - 熊本日日新聞 )
https://ift.tt/DvWdtPi
Portal Info Berita Terpercaya Paling Menghibur | IFKNews
被災者の生活再建へ公助の制度も きっかけは阪神大震災 覚えておきたい「応急修理」やローン減免のガイドライン【まね得 地震とお金・後編】
熊本日日新聞2024年4月19日 06:01
●県、損傷状況把握せず
●「孤立」で体調急変も懸念
能登半島地震後、2次避難先から被災者の半数が自宅に戻り、その帰宅先の家屋の被災状況を石川県が把握できていないことが22日分かった。余震による倒壊などの恐れがあるにもかかわらず、修繕や安全確認を行わないまま暮らし始めるケースもある。専門家は2次被害の危険性に加え、「大勢が過ごす避難所に比べ、在宅では体調の急変に気付くのが遅れやすい」と孤立に伴うリスクを指摘。災害関連死の増加につながりかねないとして警鐘を鳴らす。
県によると、これまでに県内外のホテルや旅館に2次避難した人は最大5275人で、このうち3043人が今月16日時点で退所した。退所者を対象に実施したアンケートによると、49%が自宅に戻り、29%がみなし仮設住宅に入居。被災地の仮設住宅に入ったのは全体の8%だった。
アンケートでは、自宅の応急危険度判定の結果や罹災証明書について尋ねておらず、帰宅した被災者の自宅の損傷状況は分からない。このため県は自宅に戻る人に対し、建築関係者の助言を事前に受けるよう呼び掛けているが、「建物が危険と判断されても立ち入りを禁止することはできない」(建築住宅課)という。
3月末に金沢市の2次避難先から輪島市の自宅に戻った男性(78)は、帰宅後に罹災証明書の交付を受けて自宅が「半壊」と知ったが、そのまま生活を続ける。男性は「直したくても業者が見つかりにくく、費用もかかる」と悩ましげに話した。
無断転載・複製を禁じます
バレーボール女子のVリーグ1部V1の岡山シーガルズの選手が能登半島地震の被災地を支援しようと試合会場で義援金を集め、日本赤十字社に寄付しました。
岡山シーガルズの高柳有里選手らが22日に、岡山市北区の日本赤十字社岡山県支部を訪れ「被災地のために何かできることはないかと募金活動を行った。被災地に思いが届いてほしい」と述べて、義援金を寄付しました。
チームは、ことし1月から3月にかけて、岡山市などで行われた7回のホームゲームで、能登半島地震の被災者支援の募金活動を行い、あわせて78万5968円が集まったということです。
日本赤十字社によりますと、岡山県支部には3月末までに4億7300万円あまりが集まっていて、引き続き県内の金融機関や窓口などで受け付けています。
義援金は被災した県に設置された配分委員会を通じて、全額が被災者に現金で渡されるということです。
高柳選手は「直接的なかかわりは難しいかもしれないが、こういった活動やスポーツの力で少しでも被災者の皆さんに元気を与えられたら」と話していました。
福島第一原発事故で避難を余儀なくされた住民の中には、古里に戻れないまま、避難先で亡くなった人も多い。「自宅の跡地に寄ってもらえますか」。福島県浪江町の葬祭業「
元々住んでいた町で葬儀を行い、
如水は1988年、結婚式場として出発した。朝田さんの祖父が創業者から経営を引き継ぎ、2003年頃に葬儀場も運営。かつては数百人が参列した結婚式だったが、不況となって参列者が減り、利益が上がりにくくなった。そこで、一定の需要が見込める葬式や法事も手がけるようになった。
葬式などの司会は、母親で常務の邦子さん(79)が務めた。故人の生前の様子を遺族から聞き取って紹介したり、カラオケ好きな故人の場合は生前の歌声を流したりと、心のこもった葬儀を目指してきた。
◇
震災後、事業を再開できたのは17年。居住人口が震災前の10分の1になった浪江町での営業は苦境が続いている。震災前は年150件程度あった葬儀が、いまは年に数件程度。結婚式は需要がないため、再開できていない。「結婚式は幸せをつくる仕事。本当はやりたいんですけどね」。朝田さんは寂しそうに語る。
地元の同級生や先輩、後輩はみんな如水で結婚式を挙げた。朝田さんが司会を務めたが、「『お前は飲み過ぎるから』と断られたこともあった」と笑う。自身の結婚式も、もちろん如水で挙げた。みんな笑顔で、「こんなに祝福されるものなのか」と初めて高砂から見る景色に胸がいっぱいになった。震災の半年前のことだ。
建設会社に貸していた施設が今後返却される予定で、7月には300人程度が入る宴会場を再び利用できるようになる。「これから町の復興が進めば、多くの人が集まれる場所が必要になる。いつか結婚式が再開できれば」。朝田さんはその日を待ち望んでいる。(山口優夢)
能登半島地震の被災地支援に当たる金沢大の教員や学生らが21日、金沢市内で報告会を開催した。ボランティアに参加する学生や2次避難の児童・生徒をサポートしている教員からは、子どもとの交流の場をつくる大切さを強調する意見が出た。復興に向けては、被災者の心のケアの重要性を訴えた。
被災地の医療を支援している金沢大病院神経科精神科長の菊知充教授は「過去の災害では、人とのつながりが薄くなるとストレスの度合いが高まることが分かっている」と指摘。被災者の心理的負荷を継続して調査する必要があると強調した。
ボランティア団体に所属する学生は家財の片付け、避難者への炊き出しなどを報告した。
能登半島地震の発生から3か月半。被災地では今も、県内の複数のボランティア団体が復興支援の活動を続けている。現地は今どんな状況で、被災者は何に困っているのか。NPO法人「被災者応援 愛知ボランティアセンター」(ボラセン、名古屋市)の活動に参加して、現在、必要とされている支援を探った。(中村亜貴)
道には地割れが残り、瓦屋根が地面につくほど潰れた家も目立つ。ボラセンが活動する石川県七尾市の能登島。この島の東部に位置する野崎町では、約100軒ある住宅の2割が全壊した。半壊や一部損壊を含めればほとんどに被害があったという。
ボラセンのボランティアは週末夜にバスで名古屋を出発して、車中泊後の朝から作業を始め、その夜に名古屋に戻る。14日朝、高校生から70歳代までの約40人が参加した今回の活動に、現地で合流した。
最初の作業は田んぼ脇の水路の掃除。例年は、田植え前の3月に住民が協力して泥をさらうのだが、今年は手が回っていない。地震で崩れた土砂も流入しており、家の片付けが少し進んでも、他にもやらなければならない作業が山積しているのだと改めて知った。
「片足を側溝の縁にかけて半身になると力が入るよ」。スコップを手によろよろと重い泥と格闘していると、傍らの男性が教えてくれた。
他の参加者は夜行バスで来たのに疲れた様子がない。3度目という名古屋市、伊藤謙介さん(73)は「一人で大きなことはできないが、皆でなら作業は早い。被災者に喜んでもらえて学びも多いボランティアをできる限り続けたい」と話す。
午後は富山県砺波市、森田恭弘さん(53)と、松田征治さん(79)宅の災害廃棄物を島外の仮置き場に車で運んだ。仮置き場で並んだのは15分ほど。しかし、森田さんによると3月は3時間待ったという。積み荷は年代物のミシンや美しい柄の器の破片などで、松田さん一家の思い出が詰まっているはず。それらを「小型家電」や「陶磁器」の山に分別する時、一言で「廃棄物」と呼んでしまっているものは、被災者の生きた証しなのだと胸に迫ってきた。
活動を終えて帰路に就く前に、同町の住民でボラセンとの連絡役を務める聖川つぼみさん(50)が「今や94歳のおばあちゃんも愛知ボラセンを知っている。片付けがはるかに早く進み、住民も前向きになった」とねぎらってくれた。住民の片付けはまだ続くが、島の仮設住宅には独居の高齢者もおり、ボラセンの活動は次の段階に入っていく。ボラセンの久田光政理事長(67)は「今後は住民のコミュニティー作りを応援したい」と話す。
野崎町では幸いに死者はいなかった。町内会の点呼に応答がない世帯へ、無事な人が駆けつけ、チェーンソーで倒壊家屋を切断して助けたという。農業でも協力する地域ならではの連携だ。南海トラフ地震に備え、都市部でも学ぶべきヒントがあるように感じた。
石川県穴水町で活動する「レスキューストックヤード」(名古屋市)も、ボランティア希望者を団体のブログで募っている。同県もボランティアの事前登録サイトを設け、登録者に活動案内の電子メールを送っている。
秋篠宮さまは18日、石川県穴水町を日帰りで訪れ、能登半島地震で被災した農家を見舞われた。同地震の被災者を見舞うのは2月に金沢市の病院で入院患者らと面会されて以来2度目。
秋篠宮さまは空路で石川県入りし、午前11時20分頃、車で穴水町の前田忠男さん(69)の農園に到着。園内の休憩所で前田さん親子と輪島市の米農家の川原義正さん(73)夫妻と懇談された。
前田さんは地震に伴う停電の影響で暖房が使えず、野菜の苗に被害を受けた。輪島市の義父は家屋の倒壊で亡くなったと話すと、秋篠宮さまからは「つらかったですね」といたわりの言葉があったという。
川原さんの自宅周辺は道路に地割れやゆがみが出たといい、秋篠宮さまは「外に出るのも大変だったでしょう」と気遣われた。前田さんは「心の支えと仕事の励みになった」と語った。