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被災者の心つなぐ場づくり|【西日本新聞me】 西日本新聞からの記事と詳細 ( 被災者の心つなぐ場づくり|【西日本新聞me】 - 西日本新聞 )
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被災者の心つなぐ場づくり|【西日本新聞me】 西日本新聞富士市は2日、家庭内での防災意識向上を目的にした「わが子を守る防災セミナー」を同市の市消防防災庁舎で開いた。阪神大震災での被災経験を基に全国で講演を展開するあんどうりすさんがアウトドアの知識を生かした災害対策を説明した。
あんどうさんは「アウトドアグッズは日常使いしながら災害時にも使用できる」と強調し、役に立つアイテムを紹介した。風水害時には水にぬれて低体温症になる危険性を指摘し、耐水圧の高いレインウエアの備えを勧めた。防災用品を詰めるリュックの使用法も解説。背負う際の負担を軽減させる荷物の詰め方や持ち方を伝えた。
市防災危機管理課の職員は、洪水や土砂災害で被災のリスクがある市内のエリアについて講演した。
(富士支局・沢口翔斗)
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インド水塔前で関東大震災被災者・インド人被災者追悼式 山下公園 ヨコハマ経済新聞読売新聞オンラインに掲載している記事や写真などは、日本の著作権法や国際条約などで保護されています。読売新聞社など著作権者の承諾を得ずに、転載、インターネット送信などの方法で利用することはできません。
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シリーズ「関東大震災100年の教訓」。2日のテーマは「被災者支援」です。テレビ朝日が所蔵する当時の映像に映る西洋人の女性が支援の鍵となる人物だったことが分かりました。
関東大震災直後、子どもに衣料品を配っています。この西洋人の女性は誰なのでしょうか。
群馬大学 上村千賀子名誉教授:「メアリー・ビアードでしょうね。動画は初めてですね」
上村さんが研究してきたアメリカの著名な歴史家、メアリー・ビアード。この時は2度目の来日でした。
夫のチャールズ・ビアードはやはり歴史家で、都市計画の専門家でした。
1922年には東京市長、震災後には外務大臣だった後藤新平が日本に呼んだのです。
夫が復興計画の策定を進めるなか、メアリーも日本の女性らとともに被災者支援に尽力します。
群馬大学 上村千賀子名誉教授:「実際、体を使ってメアリーは動いたんですよね」
ビアード夫妻の来日直前、震災支援をきっかけに、別々に活動していた女性団体が団結します。「東京連合婦人会」の発足です。
メアリー・ビアードは顧問に就任します。
日本キリスト教婦人矯風会 斎藤恵子さん:「『日本婦人の一人となって、この市のために尽くさん』と(メアリーは)言ったそうです」
「まず乳幼児の死亡率を下げることが大切だ」と「女性の視点」に立った支援を訴えました。
東京連合婦人会にも参加していた自由学園の生徒らによるミルクの配給にも足を運びます。
現在の東京・墨田区にあった太平小学校での給食支援に初日に招待されると、東京でのテント生活を覚悟してアメリカから持参していた多くの食料を提供。
ココアを飲んだ児童は…。
「夫人之友」1923年11月号から:「ちいっと臭いけど、うまいぞ。お汁粉かい?」
さらに、被災者のニーズに応えた支援をするため、カードを使った調査についてアドバイスをします。どこで何が必要か集計し、行政とも連携。寒くなるにつれ要望が増えると、布団を作り、安く販売する“廉売会”も開かれました。
メアリーは、こうした日本の活動を高く評価し、アメリカにも紹介しました。
群馬大学 上村千賀子名誉教授:「婦人団体がやった仕事が政策として結実するやり方をしているのがとても素晴らしい。今でも通用することだと思います」
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上野公園にある西郷隆盛の銅像とその周辺の様子です。
100年前の写真と現在を動画で比べてみました。
体や立っている台のあたりに多くの張り紙が貼ってあるのが確認できます。
当時の東京市の『東京震災録 前輯』など複数の資料によりますと、銅像や柱や壁は行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると、都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。
当時の内務省の「大正震災志」によりますと、広大な公園がわずかな隙間もない状態で、避難者は一時お互いの体を枕にして夜を明かしたということです。
その後はそれぞれの故郷に帰ったり、被害が軽微な場所に移ったりし、9月下旬には大部分が退去して、わずかに残った避難者が現在の東京国立博物館の敷地内や池之端に建設された公営のバラックに収容されたということです。