【宮城】仙台市の中心街のほど近く、一つの街が今年、姿を消した。77年前、戦争被災者のための仮設住宅団地として生まれ、人々が共同体を築き、苦楽を共にした。だが行政は移転を迫り、最後の最後の1軒が2月、解体された。街の跡は観光客を呼び込む公園になった。
仙台城跡と広瀬川にはさまれた同市青葉区・追廻(おいまわし)地区。その歴史と暮らしを振り返る展覧会「自治とバケツと、さいかちの実」が24日まで、同区のせんだいメディアテークで開催中だ。
「リュック負いアジヤの果より辿(たど)りつき 隣人となりし三千の住民」「アヒル小屋スラム街よとののしるばかり 今尚(なお)政治の外におかるる」。展示は元住民・狩野兼雄さんのこんな短歌で始まる。
追廻は戦前、旧陸軍の練兵場だった。敗戦翌年の1946年、国策でそこに約600戸のバラック長屋が「応急簡易住宅」として建てられる。アジア各地からの引き揚げ者や、空襲で焼け出された人たちが、着の身着のままで身を寄せた。
追廻住宅を建てた住宅営団は、その後解散。住民は建物を買い取り、国に借地料を払って住み続けることにした。一方、仙台市は都市計画で公園にすることに決めていたため、インフラ整備を十分行わなかった。住民は資金を出し合い、自ら道路を舗装し、水道を引くなどした。
最大約4千人が暮らした街では「自治」が確かに息づいていた。そのさまが、住民たちの記録や様々なエピソード、多数の写真で描かれる。
市は、動物園や日本庭園の整備といった構想を打ち出しては、住民と移転の話し合いを続けた。追廻を去る人は次第に増え、宮城野区新田には、集団移転用の団地もつくられた。
美術家の佐々瞬さん(37)は、元住民から追廻の思い出を聞き取り、移転を拒み続けた男性とも交流を続けてきた。会場では、最後の1軒の解体の様子が映像で紹介されている。
展示は、観(み)る人にこう問いかけてくるようだ。街が終わるとは、どういうことだろう――。
佐々さんと一緒に構成・制作を担った伊達伸明さん(59)は「この展示できれいに『終わり』にできるかというと、そうではない。物体としては終わったけれど、記憶の始まりなのかもしれない」と話す。
思えば、東日本大震災でも多くの街が失われ、戻れない土地になった。その記憶をどうつなぐか、各地で模索が続く。そのことも想起される。
追廻地区は青葉山公園に姿を変え、ビジターセンター「仙臺緑彩館」ができている。片隅に、街だったことを示す小さな「ふるさとの碑」が建てられている。(編集委員・石橋英昭)
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