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能登半島地震からの復興について、石川県は先月末、復興計画の骨子案を公表、6月の県議会までに計画を策定するとしている。東日本大震災の発生時、国土交通省から岩手県に出向中で仮設住宅の建設を担当し、同県大槌町で副町長も務めた官僚、大水敏弘さん(53)は「被災者の『戻りたい』という気持ちに寄り添う復興を目指してほしい」と提言する。
甚大被害…難しい復旧対応
能登半島地震の発生から100日以上がたちました。発災直後はその全容も把握できませんでしたが、その後状況が明らかになるにつれ、被害の甚大さと対応の難しさが浮かび上がってきました。
私も被災地へ何度か足を運びましたが、特に奥能登地域での断水や道路損壊の状況がひどく、輪島市や珠洲市の市街へ至る幹線道路が損傷して、復旧工事が本格化していない現状でも渋滞が発生してしまっています。
奥能登への玄関口である七尾市でもまだホテルや旅館が再開できていない状況で、復旧工事に当たる事業者は金沢市や富山県高岡市から片道3~4時間かけて被災地に通わなければなりません。仮設住宅の建設や、水道や道路の復旧でも、事業者の確保が大きな課題となっています。
こうした状況のなか、移動させて現地に運び込めるトイレトレーラーをはじめコンテナ型の仮設住宅やランドリーの設置が一部で行われ、被災者の生活環境の確保に大きく貢献しています。先進的な自治体では災害に備えて、こうしたトレーラーやコンテナ施設を備蓄しようという動きが出ています。国や都道府県もしっかりと支援していく必要があります。
仮設住宅建設に遅れ
仮設住宅の建設は、3月までなかなか加速しませんでした。3月末時点で完成したのは1643戸。平成16(2004)年の新潟県中越地震では約3500戸の仮設住宅建設を発災2カ月で終えています。23(2011)年の東日本大震災では、発災3カ月で3県計3万戸です。そのペースと比較すれば、事情が違うとはいえ、かなり遅くなっています。
東日本大震災の仮設住宅は、建設後に不具合に関する苦情が相次ぎ、報道でも取り上げられました。こうしたことから、近年は仮設住宅の建設を慎重に行う傾向になっているようです。
石川県が公表した資料によると、被災市町から仮設住宅を建ててほしいとの要望があった戸数は1月末時点で8480戸だったのが、3月末には6610戸となり、1870戸も減りました。
このうち特に被害の甚大な珠洲市では1100戸も減少しています。石川県は「ライフラインの復旧状況などにより、自宅に帰宅される方々が一定数いる」としていますが、珠洲市では断水の復旧すらままならないので、理由としては当たっていません。
決断迫られる被災者
一方、被災者の被災地からの転出が2月から増加していると報じられています。3月は子供の進学先を決める時期でした。転校の影響で輪島市では生徒数が約4割減、珠洲市では約3割減とも報道されています。
このように、被災者が新年度を迎えるに当たって進学先などを考慮し、復旧の見込みが立たないことから、居住地を金沢など広域避難先に定めつつあることがうかがえます。
残念ながら、仮設住宅の建設は、3月までの進路を決める時期には間に合いませんでした。被災者たちは、本当は被災地に戻りたいのに、苦渋の判断をせざるを得なかったのではないでしょうか。
いったん居住地を広域避難先にして、勤務先や病院、学校など生活の基盤が移れば、もとの居住地へ戻ることはなかなか難しくなってきます。被災者の本当は戻りたいという気持ちにどれだけ寄り添うことができるかが、これからの一番の課題ではないかと思います。
復興計画は「こころの復興」を
このような状況のなかで発表された石川県の復興プラン(計画)骨子案は、率直にいって、がっかりせざるを得ませんでした。一番の課題である「被災者のもとの生活に戻りたいという気持ちにどう寄り添うか」という視点が欠けているのです。
インフラの強靭化やなりわいの再建などがうたわれる一方で、被災者の心身ケアについては「健康管理」として1行だけ。あまりに「供給者目線」で、被災者目線がなさすぎないではないかと感じました。
被災者の「こころの復興」が進まなければ、被災地の復興が進むことはあり得ません。そして、被災者にとっては、まず目の前の状況です。目の前の景色が変わらないのに、未来を考えろといわれても、厳しいのではないでしょうか。断水の解消、被災家屋の解体など、まずは当たり前のことにしっかり取り組まなければ、被災者に希望を持ってもらうことはできないと思います。
そのためにも、復旧が迅速に進むよう、復旧作業に従事する事業者の環境改善は急務です。能登空港に支援者向けの宿泊施設が提供され、一歩前進とは思いますが、こうした動きこそ加速させていかなければならないと思います。
山古志は村長が「帰ろう」
いったん広域避難をした前例としては、新潟県中越地震で「全村避難」した旧山古志村があります。山古志村は地震直後に長岡市に合併したのですが、当時の長島忠美村長(後に衆院議員、復興副大臣を歴任)と青木勝企画課長のコンビで、全村避難を決断する一方、県と交渉して避難先を確保し、仮設住宅にも集落でまとまって入居しました。そして「帰ろう、山古志へ」というスローガンを打ち立てたのです。
被災した集落ごとに詳細な住民意向調査が行われました。それをもとに再生計画を策定、国や県と協議して実行に移し、3年半で復興事業はほぼ完成しました。青木さんは、全村避難を経験して、「田舎」の意義というものを真剣に見つめ直したと語っています。
旧山古志村民の帰還率は7割。復興のスピード感とともに、被災者のこころに寄り添ったことがこの数字に表れたのではないかと思います。
大槌は住民がワークショップ
東日本大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町でも、復興の見直しについて仮設住宅の入居者や県の内陸部に移った避難者に逐次説明しました。
住民が復興まちづくりについて話し合うワークショップを開き、そこで出た住民の意見を行政の復興計画へ取り入れていきました。内陸部との往復は片道2時間ですが、町職員はそうしたこともいとわず説明会の開催などに熱心に取り組んでくれました。
能登半島地震でも、被災者の多くは被災地に戻りたいと思っています。でも無理やり連れ戻すことはできません。被災者が抱く「住み慣れた場所に戻りたい」という願いをどう実現するかが問われています。
瓦屋根が倒壊原因ではない
能登半島は地震災害前から、風光明媚で豊かな地域文化が育まれ、高齢化は進んでいるものの移住者は年々増加傾向にありました。
能登の町並みは、伝統的な産物である能登瓦がふかれ、魅力的な景観を形成してきました。平成19(2007)年の前回の能登半島地震の際も、瓦屋根の景観を大事にした改修に、地域住民と自治体が一体となって取り組んできました。
今回の地震の映像では、建物が崩れた状況から瓦屋根であったことが問題のようにも思われがちですが、専門家による調査では、「2000年基準」と呼ばれる現在の耐震基準が確保されていたかどうかがポイントだったことが分かっています。問題は瓦ではなく、耐震性の確保が不十分であったことでした。
耐震性が不足する建物は、前回の地震には持ちこたえたとしても、それにも増して強烈な今回の地震の揺れに、残念ながら多くが被災してしまいました。被災者のショックは計り知れません。
前回の地震後はなんとか対処できたものの、17年後の今回は高齢化も進んでいて、「住宅再建や改修は本当に厳しい」という被災者の声を聞きました。
能登の魅力を生かす復興を
それでも、能登の人々は毅然としていて、前向きなのが印象的でした。能登にこれまで生きてきた誇りを持っているのだと思います。
被災者の誇りを大事にし、地域で育まれた文化をいかに大切にしていくか。復興に当たっては、外部からの応援なくしてはやっていけませんが、その中心には地域の人々の誇りがある。そうした復興を目指していかなければならないと思います。
能登瓦に代表される日本家屋、輪島塗に代表される伝統産業、漁業や農業などのなりわい、「キリコ祭り」などの伝統行事。どれが欠けても能登の復興にはなりません。復興の過程で、地域の魅力がなくなってしまわないよう細心の注意が必要です。
そして、能登の魅力を生かす復興が進めば、おのずとこの地域に関心を寄せている人たちとのつながりが生まれ、それは産業の復興にもつながっていきます。そうした復興が進むことを強く願っています。
(おおみず・としひろ)昭和45年、東京都生まれ。平成21~24年、国土交通省から岩手県へ出向、建築住宅課総括課長を務めた後、25~28年、同県大槌町副町長。現在は都市再生機構(UR)東日本都市再生本部・密集市街地整備推進役
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