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大雪被災者の電気料金猶予 中電、岡山・鳥取で Au Webポータルからの記事と詳細 ( 大雪被災者の電気料金猶予 中電、岡山・鳥取で - Au Webポータル )
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大雪被災者の電気料金猶予 中電、岡山・鳥取で Au Webポータル[unable to retrieve full-text content]
原泰久氏「被災者の手紙、励み」 福島民報古代中国を舞台にした人気漫画「キングダム」作者の原泰久さんが、宮城県多賀城市で開催中の原画などの展示イベントに際し、共同通信のインタビューに応じた。連載開始から5年が過ぎた際、東日本大震災で漫画を描き続けるか悩んだが、被災地の少年らの手紙を励みに創作を続けることができたと語った。
震災時、東京で仕事をしていた原さんには「漫画を描いている場合か」という葛藤があった。その時、師と仰ぐ漫画家井上雄彦さんから「東北にも楽しみにしている人がいっぱいいる」と言われ、迷いが消えた。「被災者から『励みになります』という手紙をもらったことが自分にも励みになった」と話した。
担当部署名/危機管理部防災支援課 外郭団体名等/(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構 阪神・淡路大震災記念人と防災未来センター 直通電話/078-262-5067
今回は「被災地で広がる温もり」というテーマで、震災資料を紹介します。
(1)期間:2023年1月31日(火)~2023年7月30日(日)
(2)展示場所:阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 西館3階(有料ゾーン)
(3)展示の趣旨
阪神・淡路大震災は、凍えるように寒い真冬の1月に発生しました。壊れた家屋から避難した被災者や各地から駆けつけたボランティアは毎日厳寒と闘いました。各地からストーブをはじめ、カイロ、毛布などが送られ、おかげで被災地では寒さに耐えることができました。今回の展示では、寒い冬の被災地で広がった温もりの証であるこのストーブを紹介します。
(4)展示資料
・だるまストーブ(資料番号:0000250-012039)
(5)その他
現在、人と防災未来センターでは、新型コロナウイルス感染防止対策を徹底して運営しております。当センターの対応につきましては、ホームページをご確認ください。
東京自動車販売協会(東自販、加藤和夫会長)は、ウクライナにおける軍事侵攻で被害を受けた被災者への人道支援として、日本赤十字社を通して3万7千円を寄付した=写真。2022年5月から12月にかけて、代表者会議や各委員会、親善野球大会などで「ウクライナ人道支援募金」として募金箱を設置し浄財を集めた。日本赤十字社事務局パートナーシップ推進部の担当者は感謝…
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2023年1月25日
経済産業省は、令和5年1月24日からの大雪による災害に関して、鳥取県八頭郡智頭町に災害救助法が適用されたことを踏まえ、被災中小企業・小規模事業者対策を行います。
災害救助法が適用された鳥取県八頭郡智頭町において、今般の大雪の影響により売上高等が減少している中小企業・小規模事業者を対象に、信用保証協会が一般保証とは別枠の限度額で融資額100%を保証するセーフティネット保証4号を適用します。
近日中に官報にて地域の指定を告示する予定ですが、信用保証協会においてセーフティネット保証4号の事前相談を開始します。(参考資料③参照)
担当者:田守、長村、髙橋
電話:03-3501-1511(内線 5251~3)
03-3501-0459(直通)
メール:bzl-keieiantei-toiawase★meti.go.jp
※ [★]を[@]に置き換えてください。
電話:03-3501-1511(内線 5271~5275)
03-3501-2876(直通)
海上自衛隊は、冬の災害現場への派遣に備えた訓練をむつ市で行い、ヘリコプターでの救助など、さまざまな支援の手順を確認しました。
この訓練は、むつ市の海上自衛隊大湊基地で、毎年夏に行われていましたが、今回は雪が積もった冬に初めて行われ、隊員などおよそ180人が参加しました。
このうち、海上を漂流している遭難者をヘリコプターで救助する訓練では、隊員が海の中に入り、「ホイスト」と呼ばれる装備を使って遭難者をつり上げ、ヘリコプターに収容していました。
また、被災者が入浴するためのテントの内部には、更衣室のほか、シャワー設備やおよそ2500リットルの湯をためることができる浴槽が設置されました。
海上自衛隊によりますと、4年前、台風で大きな被害が出た宮城県丸森町で、このテントを使って被災者の入浴を支援したということです。
26日の訓練には、自治体の関係者なども見学に訪れ、海上自衛隊の担当者から災害時の対応や設備について説明を受けていました。
海上自衛隊大湊地方総監部の棚村徳和広報推進室長は「災害はいつ起きるかわからないので、冬に災害が起きたときにどう対処できるか検証して、今後につなげていきたい」と話していました。
静岡県内に甚大な被害をもたらした2022年9月の台風15号から4か月。家に住むことができない被災者に対して、行政が費用を負担する「借上げ住宅」をめぐり、物件はあるのに部屋を借りられないという実態が明らかにな…
昨年8月の大雨による浸水被害で被災した住民の生活状況を確認するため、鯵ケ沢町社会福祉協議会は23日、5回目の地域巡回を始めた。巡回は今回が最後となり、31日には町被災者支援センターも閉鎖する方針。閉鎖後も支援活動は続ける。
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東日本大震災からことしで十三回忌を迎えるのを前に、奈良の唐招提寺や西大寺の僧侶を招いた法要が仙台市内の寺院で営まれました。仙台市若林区の東禅院で営まれた法要には津波で家族を亡くした檀家や地域の人など…
原発ゼロ・被災者支援ならの集いで挨拶をしました。
この会は、あの震災の翌年から被災者支援のためにJR奈良駅前で始まった原発ゼロの会の集いに、さよなら原発なら県ネットも共に参加して実行委員会を作っています。4年前からは集会だけでなく学ぶことも始めようと,プレイベントとして学習会を行うようになりました。
本日のこの学習講演会もそう言った位置付けとなります。
東日本大震災から今年で干支が一回り、本当に長い年月が経ちました。生まれたばかりの子どもが小学校を卒業するんです。それなのに,福島第1原発は,まだ原子力緊急事態宣言の中にあります。12年経っても全く原子炉を廃炉にする道筋さえ立たず、敷地内にたまった汚染水や汚染度をばらまこうとする決定をしています。
12年前,原発の放射能に被曝した子どもたちが大人になり、7人が、なぜ自分たちは甲状腺がんになったのかと当事者として裁判に訴えています。
このように原発事故が起こったら何一つ解決できないのに、年末には運転の再開や、老朽原発の運転延長、原発の新設まで言い出した岸田政権に怒り心頭です。
おまけに20日に裁判所が出した東電経営陣たちの不起訴にはあきれるばかりか、責任の片りんもありません。
こんな理不尽なことが罷り通っているのも,今日お話いただく高橋先生の歴史に多いに関係しているのではないかと思います。
昨年にはロシアのウクライナ侵略という目の前で戦争が繰り広げられる光景があり、原発が核兵器となることを突き付けられる現実があります。
私たちは負けているわけにはいきません。唯一の希望は人々の怒りを結集させることから始まると信じています。
今日の機会をもてたとことを感謝します。
今日の学びを次の行動につなげられるようにしっかり学びたいと思います。
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阪神・淡路大震災の被災者への貸付金で、兵庫県は19日、自治体が国に返済義務を負っている分について一時的に負担すると発表しました。
国と兵庫県は、阪神・淡路大震災の被災者のために、災害援護資金として貸し付けを行い、各市が借主からの回収業務を担ってきました。
しかし、借主の高齢化が進み、西宮市など9市で合わせて未返済分が6億円以上に上っていて、返済期限が迫る中、これ以上の返済は困難とみられています。
県はすでに、出資分のおよそ2億円の債権を放棄する方針を示していて、さらなる負担軽減をしたいとして、国への返済分4億円についても一時的に負担すると発表しました。
各市の希望に応じ、無利子、最大20年の返済期限で貸し付ける方針です。
文化審議会は20日、東日本大震災の津波被害に遭い、11年かけて修復と追加収集を終えた「陸前高田の漁撈(ぎょろう)用具」(岩手県陸前高田市)3028点を重要有形民俗文化財に指定するよう永岡桂子文部科学相に答申した。近く答申通り指定され、重要有形民俗文化財は226件となる。文化庁によると、大規模災害で被災した有形民俗文化財の指定は初めて。
東日本大震災で被災しながら、地元漁師や市民、全国の博物館職員など多くの人の手でよみがえった「陸前高田の漁撈用具」。収蔵する岩手県陸前高田市立博物館の学芸員で、再生に奔走した熊谷賢さん(56)は「津波をかぶった民俗資料の復旧は前例がなく、試行錯誤の連続だった」と11年間を振り返る。
県中古自動車販売協会・県中古自動車販売商工組合(JU長野、塩尻市)は十七日、災害被災者に車を貸し出す支援活動をする一般社団法人「日本カーシェアリング協会」(宮城県石巻市)と、災害時の車両確保や提供による活動支援などについて協定を結んだ。...
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今から28年前の1995年1月17日早朝、神戸市などを震度7の激震が襲いました。
死者6,434人を出した阪神・淡路大震災の発生です。
MKタクシーは兵庫県と神戸市からの依頼を受け、ただちに被災地へと23台のタクシーを京都から無償で派遣しました。
現地では無償タクシーがケガ人や医療関係者の送迎などに活躍し、交代で延べ184人の従業員がボランティアに従事しました。
震災写真オープンデータサイト「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」より
1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生直後に、MKタクシーの労働組合より会社に対して、被災地での救援活動に協力したいという申し出がありました。
ただちにタクシー会社として被災地のために何らかの協力をすることを決定しました。
監督官庁である近畿運輸局に対して、タクシー会社としてどのような協力ができるかの相談に加えて、営業区域外である兵庫県での営業車を用いた救援活動の可否について照会しました。
当時のMKタクシーの営業エリアは京都のみで、兵庫県には拠点はなかったためです。
近畿運輸局もMKタクシーの申し出に対して前向きな対応を行い、兵庫県に照会を行いました。
兵庫県の災害対策本部より「自治体側は救急車両が欲しい。MKの申し出を受けてくれ」との回答があり、京都からの無償タクシー派遣が実現することになりました。
1月23日には、兵庫県と神戸市より文書での正式な要請を受け、即日無償タクシーを運行するためのドライバーと車両の手配を行いました。
労働組合よりボランティア活動への協力者の募集を行ったところ、300人もの応募がありました。
翌1月24日の13時には本社を出発して京都府庁で副知事より激励を受けました。
国道十条営業所で燃料や食料、水を積み込み、15:30に被災地に向けて京都を出発しました。
兵庫県災害対策現地救護センターへ6台、神戸市防災対策本部へ17台の計23台のタクシーが被災地へと向かいました。
被災地までの道中は、緊急車両として専用道路を利用したのにもかかわらず、尼崎から神戸市役所までだけで約4時間もかかり、現地へと到着したのは20:30でした。
到着後、現地の担当係員と翌日からの行動について詳しい打ち合わせをした後、それぞれの宿泊先に向かいました。
1月24日に、タクシー無線を介して従業員に対してMKタクシー会長の青木定雄自ら行った訓示の原稿です。
さて皆さん、MKグループでは1月24日より、23台の車両を兵庫県に持ち込み、被災者や救援物資などをすべて無償で輸送しています。
ご存じのとおり現地では余震が続き、決して安全が保証された環境ではありません。
しかし災害で苦しむ方々に何か私たちでできることはないかとMKグループ各社とMKグループ労働組合の皆さんが団結し、今回の救援隊が結成されました。京都に残る社員の皆さんは、神戸で懸命に頑張る仲間のことを忘れず、市民の足をしっかりと守っていただきますよう、お願いをいたします。
良いことをしていても、地元の京都でMKが事故や苦情を出してしまうでは、全て意味のないものになります。
4つのあいさつと、制帽の正しい着用が、神戸の仲間の頑張りにこたえるものであることを、しっかりと嚙み締めてください。MKグループでは救援活動と並行して義援金の協力を市民の皆様にお願いしています。
義援金の趣旨をお客様に説明し、ご協力をいただけますようお願いをしてください。
震災被害の復興に向けて、MKグループ社員全員が一丸となってこれに取り組むよう、お願いをいたします。
無償タクシーの運行を担当したのは、MKタクシーのドライバーや事務職員です。
通常の業務とは別に、公休や有給休暇を利用して被災地でのボランティアを行いました。
京都から1日交代で被災地へと担当者を順次派遣しました。
神戸市ホームページより
現地では、タクシーを利用しての神戸市と宝塚市でのけが人や、お医者様、看護婦さん、医療品の輸送を主に行いました。
被災地はいまだ指揮系統も混乱下にあり、一日中フル稼働することもあれば、ほとんどが待機時間ということもありました。
待機時間にも輸送以外の仕分け作業など、様々な雑用を行いました。
2月1日にはようやく自治体の体制も整い、現地のタクシー会社が輸送業務の引き継ぎ可能となったので、無償タクシー派遣はいったん終了となりました。
1月24日~31日の8日間で延べ184人の従業員がボランティア活動に従事しました。
今回の阪神大震災は、私自身当然のことながら初めての経験です。テレビ、新聞などで見ていてもこれほど荒れ果てた光景は、今まで見たことがありません。
自分なりに今回の出来事に対して悲惨さを感じ、微力ながら自分も今回の地震で被災を受けた方たちへ、何か役に立つことがあればと思ってました。
そのとき、MKタクシーで救援隊を派遣するという話を聞き、率直な気持ちで名のりをあげ、参加しました。
私も姉家族が西宮に住んでいるため、地震当日の1月17日深夜に現地入りし、今回の地震による被害は、自分の目で見て分かっていたつもりでした。
しかし、実際に神戸へ現地入りし、夜が明け、朝日に神戸の町並みが写し出されてくると、想像以上の光景であまりにも悲惨な変わりように、しばらく言葉を失いました。
私の業務内容は、川崎市医師団の方が、各避難所の病人やケガ人の治療に行かれる際の送迎でした。
各避難所の体育館や学校に行く道中の家、商店、道路などテレビで紹介されているのは、ほんの一部で実際に見た光景は言葉では言い表せない状態でした。
須磨保健所の隣にも広域避難場所があり、被災者の方のなかの一人で、地元のタクシー乗務員の方が、私が帰る直前に私の所にやって来ました。
「おれは今までMKが大嫌いやった。しかし今回のMKの活動を見て、ほんまに皆、ようやってくれはった。おれは今まであんたらの会社を誤解しとった。すまん」
泣きながら私の手を握り、話してくれました。
そして、最後に「おれはあんたに何か御礼をしたいけど、今は見ての通り体一つで逃げて来た身で何も出来へんけど、せめてもの感謝の印で昨日、物資配給でもらったコーヒー缶の一本持って帰ってくれ」と言われました。
私は一回断ったものの、その方の気持ちがおさまらないと言うことで、私はコーヒーを手に現地を後にしました。
たった二日間のお手伝いにすぎませんでしたが、今回の神戸への派遣で自分自身の目で見ていろいろなことを感じました。
これからの自分に対して本当に大きな意味を持つものでありました。
そしてこのような機会をあたえて下さった会社並びに私を現地へ行かしてくださった伏見営業所職員に感謝いたします。
最後になりましたが、一日も早い復興を願い今回被災された方たちへ、頑張って下さいと声を大にして言い、私の感想文とさせていただきます。
1月24日に出発し、現地入りしました。
私は予定通り兵庫県庁に到着しましたが、車を使う担当が変わったので中央区の宮本公園へ向かうよう指示を受けました。
しかし宮本公園でもすぐに車が必要だったわけではなく、結局車が使われたのは2回だけでした。
現地はかなり混乱しており、MKタクシーの活用方法がまだ定まっていない様子でした。
一方で、MKタクシーの支援隊で市役所担当だったものは、朝からかなり忙しく動き回っていたと聞き、非常に残念に感じました。
街中を見ると、報道された以上に悲惨な光景が広がっています。
被災者はあまりにひどい生活環境で暮らされています。
もっと我々にできることはありませんか!と県の方々にお願いしたい気持ちでいっぱいでした。
今、新聞でも多くのボランティア志願者に対応しきれていないと報道されています。
現地のニーズがうまく市や県に伝わっていない部分と、ボランティア地震の適応力(?)不足に原因があると考えます。
1月26日の当番として、阪急電車で宝塚へと向かいました。
宝塚市役所につくと、夜間当番であった福岡社員に状況及び段取りを聞いて交代しました。
9:30に医師、保健婦、看護婦の3名が乗り込まれ、光明小学校へと向かいました。
12:30には仁川の高台にある宝塚第一中学校へと向かいました。
市役所周辺よりも被害が大きく、あちこちで地面の陥没や被害を受けた建物が見られました。
中学校での避難者がバケツを持って登り降りする姿を見ました。
次の宝塚第一小学校は、愛知県からの給水車が来ていました。
何人もの方が自家用車や自転車で水を汲みに来ていました。中には乳母車にポリタンクを積んだ女性もいらっしゃいました。
水の貴重さをあらためて痛感しました。
全国各地から多くの方がボランティアで被災地へとかけつけているのを見て、この世も捨てたものではないと思いました。
反面では、災害に乗じた悪徳業者がいるというニュースもあり、情けなさで腹立たしさがこみ上げてきました。
神戸市内で救援車に乗務した社員が、神戸のタクシー乗務員に「エムケイさん、ボランティアでようやるわ」と言われたということも耳にしました。
現に私が待機していた目の前で、現地のタクシー数台が貸切メーターを倒して役所の方を乗せて行くのを目にしました。
その際も「エムケイさんも大変やのう」と声をかけられました。
こういうときだからこそ地元の方の足を守ることが、今後の営業に結び付くのではないでしょうか。
今回は、一生に一度あるかないかの貴重な体験ができて勉強になりました。
ボランティアの方から「ごくろうさま」といただいた豚汁のおいしさが、今でも思い出されます。
私は、1月27日夜より28日にかけて宝塚市に救援隊として参加しました。
テレビ等の報道で見ていたほど宝塚市は比較的被害は少なかったものの、ところどころでビル・家屋の崩壊等を見ると、地震の恐ろしさを痛感しました。
当夜は冷え込みも厳しく、私は車の中で暖を取りましたが、この寒さのなか避難所の中で生活されている人のことを思うと、なかなか寝つかれず、何度も目を覚ましました。
市役所は夜中も電気がついており、中では職員、ボランティアの方々が夜を徹して作業しているのを見ると、自分もできる限りの手助けをしなければと真剣に思いました。
翌朝、早朝より救援物資を積んだ車両が続々と市役所に集まり、そのたびにボランティアの方々が大勢荷物の搬入、運搬、整理と一生懸命作業していました。
特に学生たちがリーダーの指導のもと、頑張っている姿を見て深く感動しました。
夕方より、宝塚市西公民館へ出動、医薬品をもって公民館へ入りました。
館内にはけが人が大勢治療を受けるため、長い列を作って待っていました。
その片隅で2人の先生が休む間もなく治療されていました。
帰りの車内で、今先生と医薬品が不足して大変苦労しているとの話し、乗られている宝塚市の職員の方は自分の家の整理はいまだに何もせず救援活動に従事しているとの話しを聞くと、頭が下がる思いでした。
仕事とはいえ、なぜそこまで頑張れるのか、自分を犠牲にしてまで他人に尽くせるのか、不思議でなりません。
今回の救援活動に受け持ち、多くのことを学びました。
最後に、MKの救援活動に対して、宝塚市の職員の方が感謝の気持ちを伝えてくださったことを付け加えます。
私は、1月27日から28日にかけて、宝塚市の担当者として救援車に乗務しました。
救援車両そのものは、28日の夕方まで待機が続き、3時間ほどの稼働にとどまりました。
強く感じたことは、ボランティアの方たちが本当に頑張ってくださっていたことです。
私たちは1日交代で応援を行っていましたが、ご案内した医師、看護婦の方々は、地震発生以来、文字通り不眠不休で救護に当たられていました。
ただただ頭の下がる思いです。
さらに、そのように連日働いている方々から「遠いところから来てくださってありがとう」「本当に助かっています」など、感謝のことばをかけていただき、恐縮しました。
周辺の国道は大変な渋滞となっていましたが、いくら時間がかかっても運ばなければならないものがたくさんあり、その一方でタクシーもトラック業者も引き受けてもらえないようなケースもすくなくないとのことで、当社の救援車両がお役に立てていると実感しました。
現地での交代時は宝塚のタクシーで移動しましたが、乗務員との方との会話のなかで、「うちも何か手伝いたいが、なかなか会社全体では動かない。MKさんはさすがですね」とおっしゃっていたことが印象に残っています。
ニュースで震災を知り、苦しんでいる人のために何かしてあげたいと思っているところで、我が社が動いた。
ボランティア輸送をしようというのだ。さすがはMKと思う反面、道路が大渋滞しているなか、本当に役に立てるのだろうかとも疑問に思った。
上司から28日土曜日の晩に行ってくれと告げられ、疑問を胸中に持ちながら京都を発った。
私の担当は高校のときに修学旅行で訪れた宝塚市だった。
しかし、震災のあとはかつての印象とは全く違うものだった。
市役所の方の指示を仰ぎ、さっそく医師を付近の避難所へと運んだ。
夕方からは医師をセンターに送った。
センターで待機中に、大阪からボタンティアで来たといううどん屋に会った。
脱サラしてうどん屋をはじめ、自分のうどんをおいしく食べてもらいたいからここに来た、お金なんてあとからついてくる、という。
企業としての原点の考え方だと思った。
私の業務の場合、お客様に喜んで利用してもらい、感謝の言葉を最後に言われることが最高の幸せなのである。
これは我が社の目標とする考えで、今回のボランティア活動もそのひとつであることに気づき、自分の会社に誇りが持てるようになった。
私たちは、1月31日まで宝塚市で従事しました。
現地で倒壊した建物やひび割れた道路を見ると、あらためて気持ちが引き締まる思いでした。
市役所は多種多様な救援物資で埋め尽くされていました。
宝塚までは困れて来るまでにある程度選別されているようで、決められた場所へ整然と置かれていました。
食料品はじゅうぶんありましたが、風呂などは数が少なく体を洗うまでには一時間くらい待たなければならないと言っていました。
日中はかなりあわただしく、車の出入りが途切れることはありませんでした。
周辺はひどく混雑していましたが、職員・ボランティアの人たちの誘導で何とかなっていたようです。
手伝う場所によっては、まだまだ人手が必要な感じもしました。
国立大学病院の医師を送迎中、先生たちは行政の対応の遅さに対し、自分たちの院長の権限で動けていたらと残念がっていました。
どの程度役に立てたのかわかりませんが、これからもささいなことであっても被災地の方々の役に立とうと思った一日でした。
寒さのなか、夜は外で火を囲んで体を温め、昼は小さなテントで段ボールと毛布の中で身体を休めるといいます。
この時代で考えられることのできない生活をしている人々に、ただ「がんばってください」というしかできない自分の非力さが腹立たしいばかりでした。
自分も三年前に火事にあったときの人々のありがたさが思い浮かびました。
会社で神戸に行くという知らせが入り、すぐに神戸へ行くことを決めました。
救援車にべたべたとMKタクシーと貼ってあるのを見ると、少し残念な思いになりました。
自分からMKと言わなくても、もっとスマートな方法はあったのではないかと思います。
同乗した保健所の方が頼みもしないのに「京都から来てくださったMKタクシーですよ」と言ってくださいます。
トイレを借りに保健所に入ると、「京都のMKさんや」という声があちこちから聞こえてきました。
小学5年生と中学1年生の子供を持ったお母さんにあったときは、自宅で用意してきた卵焼きなどを差し上げました。
「卵焼きがこんなにおいしいものとは思わなかった」と子供さんにとても喜んでもらえました。
今の時代、PRは大事ですが、時と場合によると思います。
PRをしなくても、良いことをすれば人々は必ず見ています。
会長、もっともっとたくさんの人々を助けてあげてください。お願いします。
まだ現地でのショックが冷めませんが、現地の方々には本当に感謝されました。
あの混乱状態ですので、激務で疲れた方の交代や医師の巡回にたいへん重宝されました。
口々に長くやってほしいとの声をいただき、31日で終了となるのは残念ではあります。
今後も募集がありましたら、ぜひ協力したいと思います。
なお、現場で出会った御影タクシーの社員から「組合からの支援物資に感謝している。よろしく申し伝えてください」との伝言を預かりました。
あれから28年の時がたちました。MKタクシー社内でも、阪神淡路大震災での無償タクシー派遣当時のことを知る人も少なくなってきました。
今や阪神淡路大震災のときにはまだ生まれていなかったという従業員も多数います。
あらためて、本記事を通じて大震災発生当時のことを知ってもらえたらうれしいです。
災害はいつ降りかかってくるかわかりません。
これからもいつかどこかで大災害があるでしょう。
そのとき、私たちはどういう行動を取れるのか。
今のMKタクシーを築き上げてきた先人たちに恥じない行動ができるか、しっかりと考えておきたいと思います。