44人が犠牲になった胆振東部地震は6日で発生から3年を迎える。心の傷や葛藤を抱えながら、それでも前に進もうとする人々の姿を追う。
かつて自宅があった山あいの一角には、青々としたキュウリや真っ赤なトマトの実がなっていた。加賀谷弘子さん(78)は、夏の日差しを浴びて育った野菜を手にほほえんだ。「ここに来ると『自分の場所』だなと、ほっとするの」。胆振東部地震の発生から間もなく3年、その思いは強くなっている。
北海道厚真町宇隆地区。ここで長年暮らし、米農家を営んでいた弘子さんと夫俊昭さん(81)は震災後、自宅跡に趣味の菜園をつくった。昨秋から車で10分弱のところにある新町地区の団地で新たな生活を始めたが、今でも時々訪れては畑作業に汗を流し、心のよりどころになっているという。
2018年9月6日、最大震度7の地震が胆振東部地方を襲い、加賀谷夫妻の自宅も激しく揺れた。山から崩れた土砂が納屋を押しつぶし、自宅は最大3メートル地盤沈下して住めなくなった。プレハブの仮設住宅に移り、約2年を過ごした。一時は自宅の再建も考えたが、農家の跡取りもいないことから20年10月下旬、仮設住宅から公営団地に引っ越した。
新たな生活が始まって約10カ月。弘子さんは入居前と比べ、人付き合いが少なくなったと感じる。「仮設住宅に住んでいた頃は、一角に談話室があって、月に数回は体操をやったり、イベントがあったりして近所の人とのつながりがあった」
災害救助法などの規定で、仮設住宅の入居期間は2年と決められている。震災で530棟が全半壊した同町では、一時400人以上が仮設住宅で暮らしていたが、昨年秋ごろから被災者は各地に散らばり、かつての交流は希薄になっている。さらに、19年1月以降、道内を席巻する新型コロナウイルスが人々のコミュニケーションを難しくしている。
弘子さんは「今はコロナでしょ。同じ仮設だった人に、ちょこっとあいさつするくらいで部屋に入る。しんどいよ」とこぼした。そこで今、自らハンドルを握り、車で訪れる菜園での作業が「気分転換になっている」と言う。
今年8月下旬、新町地区の集会所。高齢者3人が椅子に腰掛け、手足を動かす運動をしていた。地震で被災した町民らの交流の場となってきた体操教室だ。新型コロナの感染拡大で、20年11月に休止されてから約9カ月ぶりに再開された。
参加した近所の女性(80代)は「久しぶりに皆さんと会うと安心する」と笑顔を見せた。だが、この女性も昨年11月に仮設住宅から公営住宅に転居して以降、人とほとんど会わなくなったという。「コロナで友達に会いに行くのも少し遠慮してしまう」と話した。
「今でもつらい思いを抱えている人は、たくさんいる」。19年1月から約2年8カ月にわたり、体操教室の講師ボランティアとして町民に寄り添ってきた高橋康夫さん(70)は、実感を込めて言った。「仮設住宅から転居して『隣近所になじめない』という高齢者もいる。体を動かすこともそうだが、話をすることが大事」
同町は20年度から、民生委員を対象に、地域で悩みを持った人の支援を担う「ゲートキーパー」の養成を始めた。また、道の臨床心理士会の医師を招いた相談会を開いたり、社会福祉協議会の生活支援相談員が戸別に高齢者宅を訪問したりするなどして「心のケア」に当たってきた。
だが、限られた人員で町民一人一人の精神状態を正確に把握することは難しく、仮設住宅からの退去が完了してコミュニティーが分散したことで、個別の悩みは、つかみにくくなった。生活支援相談員の吉田文至さん(48)は「『つらい』と言葉に出す人は、なかなかいない」と支援の難しさを語る。
そして、新型コロナが、その難しさに拍車を掛ける。同町住民課の担当者は「コロナで大勢の人が集まる機会がほとんどなくなってしまった。情報を共有しながら何とかやっているが、今もどこかで悩んでいる人がいるかもしれない」と苦心する。
同町の防災アドバイザーを務める東北大災害科学国際研究所の定池祐季助教(災害社会学)は「仮設住宅から新居に移るなどして住まいの問題が解消されると、それまでの緊張から解放され、夜眠れなくなったり、揺れへの敏感さが増したりすることもある」と話す。ただ、これらの症状は回復傾向にある証しといい、「当然のことと受け止めることが大切」と強調する。
その上で、「趣味の活動や近所づきあいなどさまざまな関わりの中で、誰かとつながっていることが重要。できる支援は続け、仲間を増やしていくことが大切」と指摘する。
家や家族、友人など大切な人や物が奪われた地震から間もなく3年。心のケアは、より重要となっている。【高橋由衣、平山公崇】
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