天皇、皇后両陛下は22日、能登半島地震の被災者を見舞うため、羽田発の特別機で石川県に向け出発される。訪問は日帰りで、輪島市と珠洲市で避難生活を送る人たちと面会するほか、被害状況を視察する。両陛下が発...
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天皇、皇后両陛下は22日、能登半島地震の被災者を見舞うため、羽田発の特別機で石川県に向け出発される。訪問は日帰りで、輪島市と珠洲市で避難生活を送る人たちと面会するほか、被害状況を視察する。両陛下が発...
県は、能登半島地震の被災地を官民連携で支援するための会議を開き、阿部知事は、行政だけではできないきめ細かな支援に引き続きの協力を求めました。
県は、能登半島地震の「復興支援県民本部」を先月立ち上げ、民間団体と協力して一元的に支援を行うことを目指していて、21日は2回目の会議が県庁で開かれました。
会議には、NPOや労働団体、経済団体などが出席し、被災地でのボランティアなどの活動状況が報告されました。
このうち県社会福祉協議会は、マイクロバスなどを使った「ボランティアバス」を運行し能登町で活動していることなどを報告し、平日にボランティアが少ないため人手の確保が求められる状況を共有しました。
また、連合長野は、今月から現地を訪問し、被災者のニーズ把握とともに旧小学校校舎などにベースキャンプとなる施設を確保していることを報告し、来月からは平日を中心に労働組合の関係者などをボランティアとして派遣すると説明しました。
報告を受け阿部知事は、今月の26日から2日間、石川県や富山県を訪問し、被災地の課題を直接聞くことを明らかにしたうえで、「在宅避難者の把握や生活困難者の支援なども重要で、行政だけではできないきめ細かな支援に引き続き協力してもらいたい。県としても中長期的な支援を検討していきたい」と述べました。
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03/20 20:25 関西テレビ
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■たこ飯120食、芋ようかん270個も
配信
天皇、皇后両陛下が能登半島地震の被災者を見舞うため、22日に石川県輪島、珠洲両市を日帰りで訪問されることが19日の閣議で報告された。
宮内庁によると、両陛下は22日午前、羽田空港発の特別機で能登空港(輪島市)に到着。午後、自衛隊ヘリに乗り換えて同市内に入り、被災現場を視察し、避難所で被災者らを見舞う。
その後、ヘリで珠洲市に移動。市内の被災状況を視察後、避難所で被災者らと面会する。両市では、災害対応に当たった関係者とも懇談。夜に帰京する。
両陛下の被災地訪問は2019年に台風被害を受けた宮城、福島両県以来で、即位後2回目。悪天候時は4月上旬に延期される。皇后さまの珠洲市訪問は今回が初めて。
元日の地震発生後、両陛下は甚大な被害に心を痛めてきた。一方で、地元に負担を掛けたくないとの意向もあり、同庁が県と日程を調整してきた。宿泊や車での長距離移動は避け、食料は東京から持参するという。
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2万2000人を超える死者・行方不明者を数えた2011年3月11日の東日本大震災。大津波に襲われた岩手県の三陸沿岸部では、電柱もなぎ倒されて、澄み渡った夜空には満天の星がきらめいていた。
◇
澤田幸三さん(当時52歳)は釜石港に接する一角に住んでいた。震災直後に手元にあったカメラバッグを手に、近所のお年寄りを誘導して近くにある港湾事務所の屋上に避難。津波にのまれてゆく町の惨状を233コマの写真に刻んだ。ファインダー越しに、津波の引き潮に流される家の2階テラスに男女2人の人影を見た時はシャッターを押せなかった。家はそのまま波間に消えていった。
日付が変わって間もない頃、「天を埋め尽くすような星」に息をのんだ。「電気のない時代の人々はこんな星空を見て、天に昇った故人をしのんだのだろう……と思いました」
菊池玲奈さん(同17歳)は、同級生と下校途中に釜石の海辺で「立っていられないほどの激しい揺れ」を感じた。顔見知りのお年寄りを背負って高台の体育館へ搬送。日没後は居合わせた消防士や看護師を手伝い、次々と運び込まれるけが人の世話を続けた。
「頑張ったね。少し外で休んできなさい」。消防士に促されて体育館の庭に出たのは、震災翌日の午前1時過ぎだった。
「(眼下には)闇に沈むようにがれきの山が連なっていで。家族の安否を心配しで涙を浮かべて空を見上げたら、見だごともないほどの大きな緑色に輝く星が、ヒューッて糸を引ぎながら消えていったの」
地震発生直後に自転車で海を見に出かけたまま行方知れずになっていた祖父と、遺体安置所で対面したのは14日だった。「ほおを触ると。しゃっこ(冷たい)かった。じいの自転車もジャンパーも緑色で、(遺体が)見つかったのは流れ星が消えていったところの真下だったの」
「釜石最後の芸者」と呼ばれた伊藤艶子さん(同84歳)には、避難所になった学校の体育館で出会った。「私が人生で経験した4度の津波と、終戦前の艦砲射撃の時も、青く澄んだ夜空で星が輝いていた」。溶鉱炉の噴煙が空を覆いつくしてきた「鉄の街」は廃虚と化し、こぼれ落ちそうな星空には幾重もの生と死の営みが映ってみえた。
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陸前高田市の新田貢さん(同48歳)は、6歳と4歳の娘と、2人を幼稚園に迎えに行った妻(同36歳)を亡くした。
長男(同9歳)と避難所に身を寄せ、妻子の消息を捜し求めて避難所や遺体安置所を回り続けた。長女の琳さんと再会したのは、18日の夕刻だった。「ひときわ小さな遺体袋のチャックの隙間(すきま)に、見覚えのある長い髪が見え、傍らにひよこの形をした幼稚園のバッジがありました」
長男が待っている避難所までは徒歩で2時間近い道のりだった。憔悴(しょうすい)して帰路に就くと、闇に降り注ぐ光を感じ、視線を上げると月が浮かんでいた。「丸みを帯びた月が、あふれ出る涙でグンニャリとゆがんで揺れていました」
大船渡市の仮設住宅で出会った熊谷翔太さん(同8歳)は、父親を亡くした。「夜、空を見たら星の間にお父さんの顔を見つけたよ」と教えてくれた時の笑顔を忘れない。
悲しみの底にうずくまる人々は、その気持ちを言葉にすることができないでいた。震災直後から現地で取材を続けていた私は、そんな思いに接しながら彼らに「夜空の記憶」を問い続けた。そこには、被災者の心象が重なって見えた。
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震災から13年を経た24年3月上旬、三陸沿岸を再訪した。
幸三さんは、震災後も続けていた長距離トラックの仕事を今春で引退することを決めた。「がむしゃらに働いてガタがきた体を休ませようと思います」。退職後は一人旅に出るという。玲奈さんは、高校卒業後に看護師を目指して町を出た。艶子さんは、震災から5年後に逝去。貢さんは、復興住宅で思い出の写真に囲まれて暮らし、翔太さんは成人して東京で働く。
被災地で出会った人々の幾人もが亡くなっていた。顔を思い浮かべ、星空に手を合わせた。【客員編集委員・萩尾信也】