【防潮堤のない町 女川復興物語】(6)とことん議論 住民が一番頑張った - 産経ニュース

08.17
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【防潮堤のない町 女川復興物語】(6)とことん議論 住民が一番頑張った - 産経ニュース

震災から1年の春、町立病院わきの斜面でシバザクラが満開を迎えていた=2012年4月、宮城県女川町(鈴木健児撮影)
震災から1年の春、町立病院わきの斜面でシバザクラが満開を迎えていた=2012年4月、宮城県女川町(鈴木健児撮影)
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◇元東京都江戸川区土木部長・土屋信行さん

 公共工事は、人にいやがられる仕事です。私も東京都で長く土地区画整理事業をやりましたが、最初は住民から怒声と灰皿が飛んできます。

 「おれたちの生活のこと、何をわかってるんだ!」

 そういう仕事です。まずは、反対から始まるのです。

 でも、10年、15年とかかる事業のうちに、最後はお互いに抱き合って感謝されるようになります。娘さんの結婚式に呼んでくれた方もいます。

 地道に、派手なことはないかもしれないけれど、話し合いをずっと突き詰めていく。反対の声も受け止める。そういうところから、一緒になってどうやったらいいまちができるのか導き出して初めて、まちづくりじゃないかと思うのです。

 私がありがたいと思うのは、宮城県女川町とは10年、つき合いをさせてもらったことです。途中で「お前はいらない」と言われなかったし、特に最初の半年は本当に濃密に復興計画を練り、現場でいろいろな話をさせてもらいました。

 その後は、町の区画整理審議会で10年、女川のまちづくりに関わらせてもらいました。10年前の、「最後まで見届ける」という約束も、果たすことができたと思います。

「反対」から学ぶ

 私は東京都職員の時代から、まちづくりにあたっては関係する全世帯の「まちづくり個人カルテ」を作成し、事業に対するあらゆる希望を聞き、それぞれの家の事情を把握し、そこから導き出される「まち育て」の意識を醸成することを大切に考えてきました。

 区画整理事業は必ず反対されるもの、最初は賛成されないものというところから、学んできた手法です。

 どうやって作るかというと、カルテは個人情報であるため必ず面談し、1人につき最低1時間はお話をします。数枚の書き込み式用紙に、まちづくりに対する希望をはじめ、土地に関する希望、個人的な事情に関する希望などを書き込んでいきます。

 面談は何度でも受けつけていて、本人の希望がその都度変わっても構いません。この心の変遷を残すために、記入するボールペンの色を黒→青→緑→赤などと、毎回変えます。

 ほぼ全員のカルテが集まったところで、「まちづくり計画」と土地の交換である「換地」の配置を検討し、原案を決定します。

 個人カルテの作成にはもちろん、全世帯のアンケートやヒアリングが必要です。そうなると全世帯との面談が必要になり、その作業の膨大さを恐れて、そんなことは無理だと思われるかもしれませんが、そうではないのです。

 この過程を通らなければ、真のまちづくりにはなりません。隠れた不満を内包したまま進んでしまえば、いずれまちづくりそのものが瓦解(がかい)してしまうかもしれないのです。

 全世帯を対象に記名アンケートを行い、これらの取り組みの経過をすべて町民に公開して、意見を述べることも絶えず自由であることが必要です。公表された案は原案であって、町民の意見により見直し、修正を加えて完成させることが、あらかじめ示されていなければなりません。このような取り組みこそが、住民協働のまちづくりなのです。

 女川町の復興事業でも、当然のように個人カルテを作るべきだと提案しました。町役場も賛成してくれ、アンケートはすべて町の職員たちが取り組みました。

 その結果、アンケートの対象世帯数2381世帯に対し、回収世帯数は2141世帯。回収率は実に90パーセントに上ったのです。

 町役場の職員たちの汗で集めた町民の声です。

千通りのまちづくり

 土地区画整理事業には、関連する法令が90以上あるといわれています。ですが、東日本大震災のようにすべてが壊滅的になってしまった地域の災害復興事業では、使える法令は限られています。

 当然、区画整理は権利者全員との合意を前提とするため、住民との話し合いは欠かせません。逆に言えば、住民と話し合いを行わないですむまちづくりなどあろうはずもないのです。地域に住み続けるのは住民であり、その住民が納得し、子々孫々まで住み続けることがまちづくりの大前提です。

安住宣孝町長からバトンを受け継いだ須田善明町長。住民説明会で=2011年11月、宮城県女川町(町提供)
安住宣孝町長からバトンを受け継いだ須田善明町長。住民説明会で=2011年11月、宮城県女川町(町提供)
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 女川町でも、住民との話し合いは当然、濃密に行われました。震災から2カ月後の5月下旬から住民説明会を開き、復興方針の中間答申が出た段階で、避難所でも説明会や意見交換会が重ねられました。まちづくり計画は、町民の意見により目の前で変更が加えられ、住民たちも参加意識を持って最終的なまちづくり計画を確定することができたと思います。

 住民一人一人との個別面談は常に受けつけ、町民全員の意見を聞き、100人いれば100通りの、千人いれば千通りのまちづくりをめざしたのです。

 そのためのツールが、個人カルテでした。女川が「防潮堤のない町」になったのも、こうしたプロセスの結果といえるのです。

「100坪ルール」で譲り合う

 「100坪ルール」。女川町の住宅高台移転にあたっては、こんな決まりを作りました。震災前、低地に5千平方メートルもの土地を持っていた人がいました。そういう人でも、東日本大震災級の津波がきても安全な「絶対安全高台」に住むのは、100坪=330平方メートルまでで我慢してください、というルールです。

 高台移転は、みんなが望むのですが、充分な広さが取れない。本来の区画整理事業は、「換地」といって従前の土地と同じ面積を造成して渡さなければならない。けれど、女川ではみんなで話し合った結果、この原則をやぶって、みんな100坪までとしました。その代わり、誰もが安全な高台で、枕を高くして寝られるようになったわけです。

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