国内各地で自然災害が相次ぎ、その都度、義援金が募られる。被災地への個人の寄付が広がった契機は東日本大震災とされる。当時、関東在住の中学生だった記者は、何かできることはないかと、コンビニで数千円を募金箱に入れた。「全額が被災地に贈られる」とあったが、被災者にどう届けられたのか。(山形総局・奥島ひかる…
からの記事と詳細 ( 義援金は被災者にどう届く? 東日本大震災後入社の記者が追った - 河北新報オンライン )
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国内各地で自然災害が相次ぎ、その都度、義援金が募られる。被災地への個人の寄付が広がった契機は東日本大震災とされる。当時、関東在住の中学生だった記者は、何かできることはないかと、コンビニで数千円を募金箱に入れた。「全額が被災地に贈られる」とあったが、被災者にどう届けられたのか。(山形総局・奥島ひかる…
1月の能登半島地震を受け、採用マッチングアプリ開発会社取締役の栗原徹さん(31)=川崎市在住=が、被災地の避難所や通行止めの情報を投稿し、被災者や地域が情報を共有できるアプリの開発に取り組んでいる。費用をクラウドファンディング(CF)で募っており、「能登半島地震だけでなく、今後も起こる災害に備えて、地域が必要とする情報を共有できるアプリを目指したい」と支援を呼びかけている。(砂上麻子)
アプリは、被災地の地図の上で被災者が必要な支援について投稿するほか、道路状況や避難所開設の有無など身近な情報も発信し、誰もが被災地の状況をリアルタイムで把握できるようにする。支援する側も被災地の状況が分かり、効率的な支援につなげたいという。
能登半島地震の発生後、栗原さんも現地の情報を集めようとしたが、情報をまとめて検索できるウェブサイトなどがないことに気づいた。
アプリを開発しようと考えたのは、1999年6月に起きた広島市佐伯区を襲った豪雨災害がきっかけだった。当時、同区に住んでいた栗原さんは、自宅の前を激しく流れる土石流をはっきりと覚えている。山から流れてくる土砂に母親が「家が流されるかも」と、近所の人に声をかけ避難を始めた。土砂を乗り越えて近所の公園に避難したが、そこにも土砂が流れ込んできた。そこに集まっていた人から近くの高校に避難所が開設されているとの話を聞き、避難することができた。
ただ、当時はどこが安全で、どこに避難所があるか分からなかったと振り返る。こうした経験もあり、「被災者が必要な情報をリアルタイムで発信できる仕組みが必要」と考えた。
能登半島だけでなく、日本はいつどこで災害が起きるか分からない。栗原さんは「地域のニーズをリアルタイムで知ることによって、一日も早い復興につなげていきたい」と話す。
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市民タイムスは29日、1月1日に石川県で最大震度7を観測した能登半島地震の被災地支援のため、市民タイムスが開設した「救援おもいやりボックス」に寄せられた善意3647万7842円を、震源地の石川県にお届けしました。新保裕介社長と寄付者代表の3世代ご家族4人が石川県庁を訪れ、馳浩知事に目録を手渡し、「復興に役立てほしい」とお伝えしました。
人とふれあって癒やしを与える「セラピードッグ」の慰問活動が29日、七尾市中島町小牧の小牧集会所で始まり、不安や悩みを抱える被災者らを和ませた。31日まで滞在する。
活動は、災害救助犬の派遣や、被災したペットや飼い主の支援に取り組む認定NPO法人「日本レスキュー協会」(兵庫)が企画。セラピードッグには、被災者の外出や会話のきっかけづくり、心身の調子の把握にも効果があるという。2007年の能登半島地震の際にも、被災地の仮設住宅を訪問した実績がある。
この日は犬5頭が交代で集会所の玄関に並び、支援物資の受け取りなどで訪れた人たちを出迎えた。しっぽを振ったり、お手をしたりして愛敬を振りまいた。
市内の小学1年の奥田花音さん(7)は「もふもふして温かかった」とうれしそうだった。
30日は午前10時~午後1時半まで同集会所、31日の午前には道の駅すずなり(珠洲市)を訪れる。(斎藤航輝)
<ユースクが調べます!> 北陸中日新聞「Your Scoop(ユースク)~みんなの取材班」は、無料通信アプリLINE(ライン)でつながった皆さんからの暮らしの疑問や困りごとを記者がとことん掘り下げ、疑問の解消や社会・地域課題の解決を目指します。事件事故などの情報や写真・映像の提供、不正の告発も受け付けています。秘密は厳守します。LINEで友だち登録し、ご投稿ください。
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大阪府の吉村洋文知事は28日、今年1月に発生した能登半島地震で被災した子供や家族を、来年4月に開幕する2025年大阪・関西万博の会場に無料で招待することを検討していると明らかにした。同日、産経新聞の取材に答えた。
吉村氏は「被災地でつらい思いをした子供や家族に、万博会場で未来社会を体験し元気になってもらいたい」と述べ、具体的な方策を検討するとした。
また、吉村氏は万博会場で石川県内の特産品や伝統工芸品を展示する構想も明らかにし、「万博で多くの人に能登の素晴らしい特産品や技術に触れてもらうことも一つの復興支援の在り方だ」とした。
一方、万博会場の建設工事が被災地の復旧工事の資材や人手に影響することが懸念されている点については「被災地の復旧は日本の最優先課題。支障が出るのではあれば復旧を優先すべきだ」としたうえで、「万博の工事は種類や内容で復旧工事と重なる部分がほとんどなく、日本全体の工事の規模と比べれば小さい」との考えを示した。
大阪府の吉村洋文知事は28日、今年1月に発生した能登半島地震で被災した子供や家族を、来年4月に開幕する2025年大阪・関西万博の会場に無料で招待することを検討していると明らかにした。同日、産経新聞の取材に答えた。
続きを読む飯田高校の笛木勝監督は11年前からチームを指導してきましたが、人事異動で今月末に学校を離れることから、この試合が飯田高校の選手たちと臨む最後の試合となりました。
強豪の仙台育英戦を前に笛木監督は「きょうがこのチームでの最終章だ。どれだけ点を取られようと、三振しようと楽しもう」と選手に声をかけました。
試合は笛木監督が「いつもどおりに」と声を出し、選手たちはそれに応えるように、練習してきた打撃や走塁で1回と3回に得点を奪いましたが、8回に仙台育英の打線につかまり、4対6の2点差で敗れました。
それでも、選手たちは最後まで声を出して、はつらつとしたプレーを見せ、震災以来初めて行う試合の感覚を楽しんでいました。
能登半島地震で甚大な被害が出た石川県珠洲市は28日、全国から寄せられた義援金など約11億6千万円を被災者に配分すると発表した。亡くなった人のいる世帯に20万円、住宅の全壊世帯に50万円など、被害の程度に応じて配分する。早ければ4月10日から口座への入金を始める。
義援金に加え、同市へのふるさと納税の一部も配分の財源とする。泉谷満寿裕市長は同日、記者団の取材に「ふるさと納税した方にも被災者を直接支援したいという思いがあろうかと考えた。できるだけ早く配分したい」と話した。
国の被災者生活再建支援金や県の義援金に申し込んだ世帯には自動で振り込む。これらで対象外とされた準半壊世帯に5万円、一部損壊世帯にも3万円を配分するため、近く申し込み受け付けを始める予定。
市によると、3月26日までに、市に対し義援金が約8億4千万円、ふるさと納税が約13億4千万円寄せられている。
2024年早々に起きた能登半島地震は、災害が様々な課題を社会に突きつけていることを改めて浮き彫りにした。課題の中で、一般的にはあまり知られていない政治的な論点がある。それは、災害後の選挙において、被災地は与党寄りになるか野党寄りになるか、という問いである。
かつての有力説では、被災地では野党の票が増える、という分析結果が示された。例えば、米国でサメの襲撃や干ばつの被害があった地域では、現職大統領が再選を目指した時の票が減る。被災者が被害を政府・与党のせいだと無意識に感じたり、政府の不十分な災害対策が露呈したりして、野党の得票が増えると考えられた。
しかし今日ではむしろ、被災地の選挙は与党有利になるという分析結果の方が多い。例えば米国では、ある州に大規模災害を宣言した大統領は、来たる選挙でその州の票が増える。逆に、州知事から大規模災害の宣言要請を受けたのにそうしなかった大統領は、次の選挙でしっぺ返しをくらう。
あるいはハリケーンの被害を受けて給付金を受けた与党支持者はより投票に出向き(従って与党の票は増え)、野党支持者は投票に行かない(ので野党の得票は減る)。ドイツでは、洪水で被害を受けて復興資金を受けた地域は与党の得票が増えた。
コロンビアでは大雨によって援助が来た地域では、与党が選挙で有利になった。なぜこうしたことが起きるかというと、災害後は被災地に対して政府から様々な支援があるため、それに被災者が恩義を感じたり、政府の対応力を評価したりして、与党を支持するからであった。
ただ分析技術の観点から言うと、これまでの研究には問題点があった。災害が起きて財政支援がもたらされた地域ほど与党票が多かったとしても、それは、もともと与党の地盤であったところで手厚い災害対応がなされたからにすぎないかもしれない。
裏を返せば、野党の票田で災害が起きても、政府はあまり助けの手を差し伸べないかもしれない。実際、米国の研究によれば、大統領と同じ政党が強い州ほど大統領による大規模災害の宣言が出されている。
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富山市坂本(大沢野)で障害者支援施設を運営する社会福祉法人セーナー苑は26日、能登半島地震で被災した石川県穴水町の障害者支援施設「石川県精育園」の入所者8人を受け入れ、歓迎セレモニーを開いた。
石川県精育園は、地震で建物や内部設備などに被害を受け、上下水道も使えない状態という。普段通りの入所者支援が困難なことから、利用者は石川県内外の施設に避難している。今回セーナー苑も要請を受けた。
この日、8人が乗ったバスが到着すると、セーナー苑の利用者が「ようこそ!セーナー苑へ」と書いたメッセージで迎え入れた。「大変だったでしょう」「ようこそ富山へ」などと声をかけた。
歓迎セレモニーで車谷市朗苑長が「利用者や職員一同心から歓迎しています。安心して暮らしてください」とあいさつ。石川県精育園統括責任者の田中こず恵さんが「8人には新しい出会いや活動を経験してほしい」と話した。
建物の改修の見通しが立っていないことから、8人の避難期間は現時点で決まっていないという。
両陛下は再びヘリコプターに乗って、午後4時すぎに、災害関連死の疑いを含め103人が亡くなり津波で広い範囲が浸水した珠洲市に入られました。
そして、80人あまりが避難生活を送っている近くの中学校を訪ね、被災者と懇談されました。
さらに両陛下は、地震と津波で被害を受けた飯田港に移動し、泉谷満寿裕市長から被災状況について説明を受けられました。
時折うなずきながら話を聞いていた両陛下は、被害が大きかった地区の方に向かって深く一礼されました。
両陛下が発生から間もない自然災害の被災地を訪れたのは天皇陛下の即位後2回目で、輪島市と珠洲市の避難所では、自治体や警察・消防の関係者など災害対応にあたった人たちにもねぎらいのことばをかけられました。
両陛下は、このあと石川県を発って、午後9時ごろ東京に戻られました。
阪神・淡路大震災の後、西宮の人たちは武庫川を越えて尼崎の銭湯に通ったと聞いたことがある。武庫川に架かる甲武橋を渡って尼崎市に入り、「三興湯」へ向かった。
男女計300人が一度に入浴でき、駐車場も60台分ある。「震災後は100人くらいの行列ができて、毎日、駐車場の交通整理に追われたわ」と店主の井上三喜保さん(78)。
自宅も兼ねる鉄筋2階建ての壁にひびは入ったが、井戸水を利用していることもあり、震災直後から湯を沸かせた。まずは近所の人に無料開放し、1週間後に通常営業を始めると被災者がどっと押し寄せた。
日本航空石川がある石川県輪島市では、能登半島地震の被災者らがテレビ中継越しに声援を送った。
80人以上が身を寄せている同市立大屋小学校の体育館には大型テレビが設置され、避難生活を送る高齢者らが試合を見守った。市内の自宅が全壊し、妻と2人で避難している男性(73)は「今日の試合を楽しみにしていた。こんなときにわくわくさせてくれる、球児の姿は地域の希望です」と話した。
同市西脇町の河原田公民館でも住民らがテレビの前で応援し、「いいボール」「よく抑えた」などと歓声が上がった。日本航空石川はあと一歩及ばなかったが、館長で同校の理事長補佐も務める古谷裕さん(66)は「県外への移動など困難な状況の中で、元気はつらつとプレーしてくれる姿が頼もしい。よくやったと言ってあげたい」とねぎらった。
地震による液状化の被害が大きかった富山県高岡市伏木地区で、被災者の心のケアの方法を学ぶ研修会が開かれました。この時期は、うつ病などにかからないよう被災者の不安を軽減させることが重要だと専門家は指摘します。
研修会では、県心の健康センターの麻生光男所長が講師を務め、被災者の支援にあたる民生委員などを対象に、被災後の時期に応じた心のケアについて講演しました。
麻生所長は、被災後1か月から3か月は不安や孤独感が深まる時期で、生活再建への具体的な支援などで被災者の現実的な不安を軽くする必要があると説明しました。
また、うつ病や自殺対策が必要な時期でもあり、定期的な訪問など見守り体制の構築が重要だと話します。
自宅が傾くなど自らも被災した健康づくりボランティアの女性は…。
自宅が被災した参加者:
「いつも心の中にストレスとかイライラとか不安がいっぱいたまっている。私自身がそうです」
参加者:
「気丈に見えても突然心が折れることもあるんだなって気づきました。これから気をつけて、みなさんと接したいと思います」
天皇、皇后両陛下は22日、能登半島地震の被災者を見舞うため、羽田発の特別機で石川県に向け出発される。訪問は日帰りで、輪島市と珠洲市で避難生活を送る人たちと面会するほか、被害状況を視察する。両陛下が発...
県は、能登半島地震の被災地を官民連携で支援するための会議を開き、阿部知事は、行政だけではできないきめ細かな支援に引き続きの協力を求めました。
県は、能登半島地震の「復興支援県民本部」を先月立ち上げ、民間団体と協力して一元的に支援を行うことを目指していて、21日は2回目の会議が県庁で開かれました。
会議には、NPOや労働団体、経済団体などが出席し、被災地でのボランティアなどの活動状況が報告されました。
このうち県社会福祉協議会は、マイクロバスなどを使った「ボランティアバス」を運行し能登町で活動していることなどを報告し、平日にボランティアが少ないため人手の確保が求められる状況を共有しました。
また、連合長野は、今月から現地を訪問し、被災者のニーズ把握とともに旧小学校校舎などにベースキャンプとなる施設を確保していることを報告し、来月からは平日を中心に労働組合の関係者などをボランティアとして派遣すると説明しました。
報告を受け阿部知事は、今月の26日から2日間、石川県や富山県を訪問し、被災地の課題を直接聞くことを明らかにしたうえで、「在宅避難者の把握や生活困難者の支援なども重要で、行政だけではできないきめ細かな支援に引き続き協力してもらいたい。県としても中長期的な支援を検討していきたい」と述べました。
全国各地の魚介を味わえるフードフェスが大阪市北区で始まりました。能登半島地震の被災者が特別な思いで出...
03/20 20:25 関西テレビ
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能登半島地震の被災者を元気づけようと、イベント企画会社経営の北山清文さん(54)=明石市=らがキッチンカーで石川県七尾市を訪れ、明石焼きを振る舞った。割り箸の入った箸袋には、明石こども園と藤江小学校の子どもたちのイラスト付き応援メッセージが書かれ、被災者の心と体を温めた。(森 信弘)
■たこ飯120食、芋ようかん270個も
配信
天皇、皇后両陛下が能登半島地震の被災者を見舞うため、22日に石川県輪島、珠洲両市を日帰りで訪問されることが19日の閣議で報告された。
宮内庁によると、両陛下は22日午前、羽田空港発の特別機で能登空港(輪島市)に到着。午後、自衛隊ヘリに乗り換えて同市内に入り、被災現場を視察し、避難所で被災者らを見舞う。
その後、ヘリで珠洲市に移動。市内の被災状況を視察後、避難所で被災者らと面会する。両市では、災害対応に当たった関係者とも懇談。夜に帰京する。
両陛下の被災地訪問は2019年に台風被害を受けた宮城、福島両県以来で、即位後2回目。悪天候時は4月上旬に延期される。皇后さまの珠洲市訪問は今回が初めて。
元日の地震発生後、両陛下は甚大な被害に心を痛めてきた。一方で、地元に負担を掛けたくないとの意向もあり、同庁が県と日程を調整してきた。宿泊や車での長距離移動は避け、食料は東京から持参するという。
能登半島地震の被災地、石川県能登町の小学校ではきょう卒業式が行われ、体育館で避難生活を続ける住民も出席して、子どもたちの門出を祝いました。能登町の小木小学校では地震の影響で愛媛県の学校に転校した児童…
2万2000人を超える死者・行方不明者を数えた2011年3月11日の東日本大震災。大津波に襲われた岩手県の三陸沿岸部では、電柱もなぎ倒されて、澄み渡った夜空には満天の星がきらめいていた。
◇
澤田幸三さん(当時52歳)は釜石港に接する一角に住んでいた。震災直後に手元にあったカメラバッグを手に、近所のお年寄りを誘導して近くにある港湾事務所の屋上に避難。津波にのまれてゆく町の惨状を233コマの写真に刻んだ。ファインダー越しに、津波の引き潮に流される家の2階テラスに男女2人の人影を見た時はシャッターを押せなかった。家はそのまま波間に消えていった。
日付が変わって間もない頃、「天を埋め尽くすような星」に息をのんだ。「電気のない時代の人々はこんな星空を見て、天に昇った故人をしのんだのだろう……と思いました」
菊池玲奈さん(同17歳)は、同級生と下校途中に釜石の海辺で「立っていられないほどの激しい揺れ」を感じた。顔見知りのお年寄りを背負って高台の体育館へ搬送。日没後は居合わせた消防士や看護師を手伝い、次々と運び込まれるけが人の世話を続けた。
「頑張ったね。少し外で休んできなさい」。消防士に促されて体育館の庭に出たのは、震災翌日の午前1時過ぎだった。
「(眼下には)闇に沈むようにがれきの山が連なっていで。家族の安否を心配しで涙を浮かべて空を見上げたら、見だごともないほどの大きな緑色に輝く星が、ヒューッて糸を引ぎながら消えていったの」
地震発生直後に自転車で海を見に出かけたまま行方知れずになっていた祖父と、遺体安置所で対面したのは14日だった。「ほおを触ると。しゃっこ(冷たい)かった。じいの自転車もジャンパーも緑色で、(遺体が)見つかったのは流れ星が消えていったところの真下だったの」
「釜石最後の芸者」と呼ばれた伊藤艶子さん(同84歳)には、避難所になった学校の体育館で出会った。「私が人生で経験した4度の津波と、終戦前の艦砲射撃の時も、青く澄んだ夜空で星が輝いていた」。溶鉱炉の噴煙が空を覆いつくしてきた「鉄の街」は廃虚と化し、こぼれ落ちそうな星空には幾重もの生と死の営みが映ってみえた。
◇
陸前高田市の新田貢さん(同48歳)は、6歳と4歳の娘と、2人を幼稚園に迎えに行った妻(同36歳)を亡くした。
長男(同9歳)と避難所に身を寄せ、妻子の消息を捜し求めて避難所や遺体安置所を回り続けた。長女の琳さんと再会したのは、18日の夕刻だった。「ひときわ小さな遺体袋のチャックの隙間(すきま)に、見覚えのある長い髪が見え、傍らにひよこの形をした幼稚園のバッジがありました」
長男が待っている避難所までは徒歩で2時間近い道のりだった。憔悴(しょうすい)して帰路に就くと、闇に降り注ぐ光を感じ、視線を上げると月が浮かんでいた。「丸みを帯びた月が、あふれ出る涙でグンニャリとゆがんで揺れていました」
大船渡市の仮設住宅で出会った熊谷翔太さん(同8歳)は、父親を亡くした。「夜、空を見たら星の間にお父さんの顔を見つけたよ」と教えてくれた時の笑顔を忘れない。
悲しみの底にうずくまる人々は、その気持ちを言葉にすることができないでいた。震災直後から現地で取材を続けていた私は、そんな思いに接しながら彼らに「夜空の記憶」を問い続けた。そこには、被災者の心象が重なって見えた。
◇
震災から13年を経た24年3月上旬、三陸沿岸を再訪した。
幸三さんは、震災後も続けていた長距離トラックの仕事を今春で引退することを決めた。「がむしゃらに働いてガタがきた体を休ませようと思います」。退職後は一人旅に出るという。玲奈さんは、高校卒業後に看護師を目指して町を出た。艶子さんは、震災から5年後に逝去。貢さんは、復興住宅で思い出の写真に囲まれて暮らし、翔太さんは成人して東京で働く。
被災地で出会った人々の幾人もが亡くなっていた。顔を思い浮かべ、星空に手を合わせた。【客員編集委員・萩尾信也】
能登半島地震の被災地を支援するため、2月11日から1週間、石川県珠洲(すず)市に派遣されていた三木市の女性職員2人が、仲田一彦市長ら市幹部に現地での活動内容を報告した。2人は「たくさんのボランティアが集まって生活の支えになっている。まだまだ支援が必要」と被災地の現状を訴えた。(小西隆久)
「笑ったって 泣いたって 苦しくたっても きっときっと 明日はやってくる そう信じていたい」。能登半島地震で大きな被害を受けた石川県珠洲市と能登町の若者ら約100人が笑顔で歌う動画が、発生から2カ月を迎えた1日からユーチューブで公開されている。
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能登半島地震で甚大な被害に遭った石川県輪島市で15日、市立小の卒業式が開かれた。門前地区では、門前東小の体育館で門前西小と合同の卒業式が行われ、開始前には地震の犠牲者に黙とうをささげた。
2校からは11人が卒業。卒業証書授与では、名前が読み上げられると「はい」と力強く答え、順番に証書を受け取った。門前東小の青木七音さん(12)が卒業生を代表して「地震の経験が助け合いの大切さと人間の強さを教えてくれた。必ずこの困難を乗り越えていきます」と決意を語った。
2月19日に2校は門前東小で授業を再開したが、自宅に戻れず避難先から通う児童や、市外からオンラインで出席する児童もいた。
能登半島地震では、今も1万人弱が避難所で生活しており、高齢者も多い。中には、食べた物を咀嚼(そしゃく)したり、のみ込んだりすることが困難な人もいる。そうした嚥下(えんげ)が難しい人の食を支えるため、栄養補助食品の提供が進んでいて、こだわりの嚥下食を差し入れる試みも始まった。 (佐橋大)
肉じゃがなどのレトルトのペースト食約6千袋、タンパク質も取れてのみ込みやすいゼリー約6千個…。嚥下が困難な人向けに、補助食品を製造販売するニュートリー(三重県四日市市)は1月10日から、自社の製品を被災地に送った。
「支援物資として届けられるパンなどは、実は嚥下障害の人には食べにくいもの。思うように食べられないと、栄養不足になり、フレイル(虚弱)につながる。無理に食べれば、のどに詰まったり、誤嚥(ごえん)したりする。少しでも力になれれば」。広報担当者は提供の理由をそう語る。
入れ歯をなくし、歯茎で食べている人、難病で嚥下の状態が悪い人…。今回の被災地にも食の配慮が必要な人は多い。石川県輪島市の福祉施設「ウミュードゥソラ」では、嚥下補助食品なども活用し、むせるのを防ぐためにとろみをつけたり軟らかくしたり、それぞれに合った形で食事を出すという。ここで福祉避難所を運営する看護師の中村悦子さん(64)は「さまざまな食の支援ができるのも皆さんのおかげ」と感謝する。
2月26日には、愛知県犬山市の和食店「関西」が、嚥下食の弁当「口福膳」=写真=50食を「ウミュードゥソラ」に運び込み、高齢者らを喜ばせた。ウナギのかば焼きやステーキなどを、見た目やおいしさにもこだわり、嚥下障害の人も食べられるように工夫したもの。輪島市の特別支援学校高等部2年生、西田能兜(よしと)さん(17)も自宅に届けてもらい、母の早百合さん(44)に体を支えられながら味わった。
能兜さんは、紫外線を浴びられない難病で、誤嚥のリスクも抱える。被災後はストレスのためか、嚥下の力が大幅に落ち、自分の唾液でもしばしばむせるように。早百合さんは、食材を細かめに刻んだり、軟らかくしたりして普段よりも気を使って調理してきた。栄養補助食品は慣れないためか、食が進まなかったといい、「このお弁当は『自分のもの!』という感じで食べてくれた。気にかけてくれる人がいる、というだけでうれしい。力をいただいた」と早百合さんは話した。
「被災地にも嚥下障害で食べたいものが食べられない人がいる。そうした人に食の楽しみを届けたかった」と「関西」の小島健一社長(46)。この弁当は冷凍のまま送れるため、今後も何らかの形で被災地に届けたいという。
摂食嚥下リハビリテーションが専門の日本歯科大の菊谷武教授は、嚥下障害は本人には重大な障害なのに、周りからは気付かれにくいと指摘。「被災時には、本人、家族は我慢せず、障害に配慮した食品の提供を求めてほしい。声を上げることで、メーカーなどが提供した物資が有効に使える」と話す。
一方で、被災直後は多様な食べ物は避難所に届きにくいため、「本人や家族も災害に備え、嚥下障害に対応したレトルト食品などを準備しておくといい」とも。ニュートリーも、その人の状態に合った食品を備えることが大切といい、試した上で、食べた分だけ買い足して備蓄するローリングストックを提案している。
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ダンスや歌で被災者を笑顔にしようと、グローバルボーイズグループ「JO1(ジェイオーワン)」のメンバーが志賀町を訪問し、被災者と一緒にダンスを踊ったり、交流したりして楽しんだ。
メンバーらは、フジテレビ朝の情報番組「めざまし8」の企画の一環で、町の協力を得て被災地を訪問。志賀中学校と、1月に「二十歳のつどい」に参加するはずだった10人の元を訪れた。
志賀中では、メンバーらはダンスを披露。簡単な振り付けを生徒にレクチャーすると、一緒に踊って楽しんだ。「二十歳のつどい」に参加するはずだった10人の元にもサプライズで訪れ、メンバーと10人は会話などをして楽しんだ。
メンバーの與那城奨(よなしろしょう)さん(28)は「つらい事もあると思うけど、一緒に踊ったことを思い出して元気になってほしい」と話した。金城大の横山なづはさん(20)は「コロナで修学旅行もなくなり、地震で二十歳のつどいもなくなった。JO1のファンなので、思い出に残るような経験ができてうれしい」と喜んでいた。(山脇彩佳)
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長野計器(上田市)は13日、能登半島地震の被災者支援や復興に役立ててもらうため、県内外のグループ会社10社とともに義援金500万円を寄付したと発表した。日本赤十字社を通じて現地に送る。長野計器は「再び安心して暮らせる環境が一日も早く整うことを、心よりお祈り申し上げます」とコメントした。
安芸高田市から車で約10時間、能登半島地震の被災地、石川県珠洲市に2回赴き、外国人被災者の調査や食材支援に携わった。そこではこれまで同様に、行政などが多言語で災害や支援情報をホームページや交流サイト(SNS)で発信しているにもかかわらず、そこで暮らすインドネシア人たちには届いていなかった。