阪神淡路大震災の被災地にMKが京都から無償タクシーを派遣 - MKメディア - MKメディア

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12.32
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今から28年前の1995年1月17日早朝、神戸市などを震度7の激震が襲いました。
死者6,434人を出した阪神・淡路大震災の発生です。
MKタクシーは兵庫県と神戸市からの依頼を受け、ただちに被災地へと23台のタクシーを京都から無償で派遣しました。
現地では無償タクシーがケガ人や医療関係者の送迎などに活躍し、交代で延べ184人の従業員がボランティアに従事しました。

1995年1月26日 雲井通4・5丁目 南より北を望む 左建物(中央区役所)

1995年1月26日 雲井通4・5丁目 南より北を望む 左建物(中央区役所)

震災写真オープンデータサイト「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」より

無償タクシー派遣活動の概要

無償タクシー派遣の経緯

自治体からの要請で無償タクシー派遣を決定

1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生直後に、MKタクシーの労働組合より会社に対して、被災地での救援活動に協力したいという申し出がありました。
ただちにタクシー会社として被災地のために何らかの協力をすることを決定しました。

監督官庁である近畿運輸局に対して、タクシー会社としてどのような協力ができるかの相談に加えて、営業区域外である兵庫県での営業車を用いた救援活動の可否について照会しました。
当時のMKタクシーの営業エリアは京都のみで、兵庫県には拠点はなかったためです。
近畿運輸局もMKタクシーの申し出に対して前向きな対応を行い、兵庫県に照会を行いました。
兵庫県の災害対策本部より「自治体側は救急車両が欲しい。MKの申し出を受けてくれ」との回答があり、京都からの無償タクシー派遣が実現することになりました。

兵庫県からの要請書

兵庫県から近畿運輸局への要請書

1月23日には、兵庫県と神戸市より文書での正式な要請を受け、即日無償タクシーを運行するためのドライバーと車両の手配を行いました。
労働組合よりボランティア活動への協力者の募集を行ったところ、300人もの応募がありました。

MK新聞 平成7年2月7日号

MK新聞 平成7年2月7日号

京都から5時間かけて被災地へ

翌1月24日の13時には本社を出発して京都府庁で副知事より激励を受けました。
国道十条営業所で燃料や食料、水を積み込み、15:30に被災地に向けて京都を出発しました。
兵庫県災害対策現地救護センターへ6台、神戸市防災対策本部へ17台の計23台のタクシーが被災地へと向かいました。

被災地までの道中は、緊急車両として専用道路を利用したのにもかかわらず、尼崎から神戸市役所までだけで約4時間もかかり、現地へと到着したのは20:30でした。
到着後、現地の担当係員と翌日からの行動について詳しい打ち合わせをした後、それぞれの宿泊先に向かいました。

MK新聞 平成7年2月22日号

MK新聞 平成7年2月22日号

従業員向けの無線での訓示

1月24日に、タクシー無線を介して従業員に対してMKタクシー会長の青木定雄自ら行った訓示の原稿です。

さて皆さん、MKグループでは1月24日より、23台の車両を兵庫県に持ち込み、被災者や救援物資などをすべて無償で輸送しています。
ご存じのとおり現地では余震が続き、決して安全が保証された環境ではありません。
しかし災害で苦しむ方々に何か私たちでできることはないかとMKグループ各社とMKグループ労働組合の皆さんが団結し、今回の救援隊が結成されました。

京都に残る社員の皆さんは、神戸で懸命に頑張る仲間のことを忘れず、市民の足をしっかりと守っていただきますよう、お願いをいたします。
良いことをしていても、地元の京都でMKが事故や苦情を出してしまうでは、全て意味のないものになります。
4つのあいさつと、制帽の正しい着用が、神戸の仲間の頑張りにこたえるものであることを、しっかりと嚙み締めてください。

MKグループでは救援活動と並行して義援金の協力を市民の皆様にお願いしています。
義援金の趣旨をお客様に説明し、ご協力をいただけますようお願いをしてください。
震災被害の復興に向けて、MKグループ社員全員が一丸となってこれに取り組むよう、お願いをいたします。

被災地での無償タクシーの活動概要

無償タクシーの運行を担当したのは、MKタクシーのドライバーや事務職員です。
通常の業務とは別に、公休や有給休暇を利用して被災地でのボランティアを行いました。
京都から1日交代で被災地へと担当者を順次派遣しました。

避難所のボランティアタクシー

避難所のボランティアタクシー

神戸市ホームページより

現地では、タクシーを利用しての神戸市と宝塚市でのけが人や、お医者様、看護婦さん、医療品の輸送を主に行いました。
被災地はいまだ指揮系統も混乱下にあり、一日中フル稼働することもあれば、ほとんどが待機時間ということもありました。
待機時間にも輸送以外の仕分け作業など、様々な雑用を行いました。

2月1日にはようやく自治体の体制も整い、現地のタクシー会社が輸送業務の引き継ぎ可能となったので、無償タクシー派遣はいったん終了となりました。
1月24日~31日の8日間で延べ184人の従業員がボランティア活動に従事しました。

物資積み込みのため、国道十条営業所に勢ぞろいした無償タクシー

物資積み込みのため、国道十条営業所に勢ぞろいした無償タクシー

ボランティアに従事した従業員の声

斎藤達也社員(伏見営業所)

MK新聞 平成7年2月22日号

MK新聞 平成7年2月22日号

役に立ちたいとの思いで手を挙げる

今回の阪神大震災は、私自身当然のことながら初めての経験です。テレビ、新聞などで見ていてもこれほど荒れ果てた光景は、今まで見たことがありません。
自分なりに今回の出来事に対して悲惨さを感じ、微力ながら自分も今回の地震で被災を受けた方たちへ、何か役に立つことがあればと思ってました。
そのとき、MKタクシーで救援隊を派遣するという話を聞き、率直な気持ちで名のりをあげ、参加しました。

病人やケガ人の送迎を担当

私も姉家族が西宮に住んでいるため、地震当日の1月17日深夜に現地入りし、今回の地震による被害は、自分の目で見て分かっていたつもりでした。
しかし、実際に神戸へ現地入りし、夜が明け、朝日に神戸の町並みが写し出されてくると、想像以上の光景であまりにも悲惨な変わりように、しばらく言葉を失いました

私の業務内容は、川崎市医師団の方が、各避難所の病人やケガ人の治療に行かれる際の送迎でした。
各避難所の体育館や学校に行く道中の家、商店、道路などテレビで紹介されているのは、ほんの一部で実際に見た光景は言葉では言い表せない状態でした。

地元のタクシー乗務員から受け取った1本のコーヒー

須磨保健所の隣にも広域避難場所があり、被災者の方のなかの一人で、地元のタクシー乗務員の方が、私が帰る直前に私の所にやって来ました。
「おれは今までMKが大嫌いやった。しかし今回のMKの活動を見て、ほんまに皆、ようやってくれはった。おれは今まであんたらの会社を誤解しとった。すまん」
泣きながら私の手を握り、話してくれました

そして、最後に「おれはあんたに何か御礼をしたいけど、今は見ての通り体一つで逃げて来た身で何も出来へんけど、せめてもの感謝の印で昨日、物資配給でもらったコーヒー缶の一本持って帰ってくれ」と言われました。
私は一回断ったものの、その方の気持ちがおさまらないと言うことで、私はコーヒーを手に現地を後にしました。

大きな意味があった2日間

たった二日間のお手伝いにすぎませんでしたが、今回の神戸への派遣で自分自身の目で見ていろいろなことを感じました。
これからの自分に対して本当に大きな意味を持つものでありました。
そしてこのような機会をあたえて下さった会社並びに私を現地へ行かしてくださった伏見営業所職員に感謝いたします。

最後になりましたが、一日も早い復興を願い今回被災された方たちへ、頑張って下さいと声を大にして言い、私の感想文とさせていただきます。

その他のボランティア参加者の声

大橋職員(山科営業所)

1月24日に出発し、現地入りしました。
私は予定通り兵庫県庁に到着しましたが、車を使う担当が変わったので中央区の宮本公園へ向かうよう指示を受けました。
しかし宮本公園でもすぐに車が必要だったわけではなく、結局車が使われたのは2回だけでした。
現地はかなり混乱しており、MKタクシーの活用方法がまだ定まっていない様子でした。
一方で、MKタクシーの支援隊で市役所担当だったものは、朝からかなり忙しく動き回っていたと聞き、非常に残念に感じました。

街中を見ると、報道された以上に悲惨な光景が広がっています。
被災者はあまりにひどい生活環境で暮らされています。
もっと我々にできることはありませんか!と県の方々にお願いしたい気持ちでいっぱいでした。
今、新聞でも多くのボランティア志願者に対応しきれていないと報道されています。
現地のニーズがうまく市や県に伝わっていない部分と、ボランティア地震の適応力(?)不足に原因があると考えます。

辻村社員(伏見営業所)

1月26日の当番として、阪急電車で宝塚へと向かいました。
宝塚市役所につくと、夜間当番であった福岡社員に状況及び段取りを聞いて交代しました。

9:30に医師、保健婦、看護婦の3名が乗り込まれ、光明小学校へと向かいました。
12:30には仁川の高台にある宝塚第一中学校へと向かいました。
市役所周辺よりも被害が大きく、あちこちで地面の陥没や被害を受けた建物が見られました。
中学校での避難者がバケツを持って登り降りする姿を見ました。
次の宝塚第一小学校は、愛知県からの給水車が来ていました。
何人もの方が自家用車や自転車で水を汲みに来ていました。中には乳母車にポリタンクを積んだ女性もいらっしゃいました。
水の貴重さをあらためて痛感しました。

全国各地から多くの方がボランティアで被災地へとかけつけているのを見て、この世も捨てたものではないと思いました。
反面では、災害に乗じた悪徳業者がいるというニュースもあり、情けなさで腹立たしさがこみ上げてきました。

神戸市内で救援車に乗務した社員が、神戸のタクシー乗務員に「エムケイさん、ボランティアでようやるわ」と言われたということも耳にしました。
現に私が待機していた目の前で、現地のタクシー数台が貸切メーターを倒して役所の方を乗せて行くのを目にしました。
その際も「エムケイさんも大変やのう」と声をかけられました。
こういうときだからこそ地元の方の足を守ることが、今後の営業に結び付くのではないでしょうか。

今回は、一生に一度あるかないかの貴重な体験ができて勉強になりました。
ボランティアの方から「ごくろうさま」といただいた豚汁のおいしさが、今でも思い出されます

大島職員(経理部)

私は、1月27日夜より28日にかけて宝塚市に救援隊として参加しました。
テレビ等の報道で見ていたほど宝塚市は比較的被害は少なかったものの、ところどころでビル・家屋の崩壊等を見ると、地震の恐ろしさを痛感しました。

当夜は冷え込みも厳しく、私は車の中で暖を取りましたが、この寒さのなか避難所の中で生活されている人のことを思うと、なかなか寝つかれず、何度も目を覚ましました。
市役所は夜中も電気がついており、中では職員、ボランティアの方々が夜を徹して作業しているのを見ると、自分もできる限りの手助けをしなければと真剣に思いました。

翌朝、早朝より救援物資を積んだ車両が続々と市役所に集まり、そのたびにボランティアの方々が大勢荷物の搬入、運搬、整理と一生懸命作業していました。
特に学生たちがリーダーの指導のもと、頑張っている姿を見て深く感動しました。

夕方より、宝塚市西公民館へ出動、医薬品をもって公民館へ入りました。
館内にはけが人が大勢治療を受けるため、長い列を作って待っていました。
その片隅で2人の先生が休む間もなく治療されていました。
帰りの車内で、今先生と医薬品が不足して大変苦労しているとの話し、乗られている宝塚市の職員の方は自分の家の整理はいまだに何もせず救援活動に従事しているとの話しを聞くと、頭が下がる思いでした。
仕事とはいえ、なぜそこまで頑張れるのか、自分を犠牲にしてまで他人に尽くせるのか、不思議でなりません
今回の救援活動に受け持ち、多くのことを学びました。

最後に、MKの救援活動に対して、宝塚市の職員の方が感謝の気持ちを伝えてくださったことを付け加えます。

福井職員(総務部)

私は、1月27日から28日にかけて、宝塚市の担当者として救援車に乗務しました。
救援車両そのものは、28日の夕方まで待機が続き、3時間ほどの稼働にとどまりました。

強く感じたことは、ボランティアの方たちが本当に頑張ってくださっていたことです。
私たちは1日交代で応援を行っていましたが、ご案内した医師、看護婦の方々は、地震発生以来、文字通り不眠不休で救護に当たられていました。
ただただ頭の下がる思いです。
さらに、そのように連日働いている方々から「遠いところから来てくださってありがとう」「本当に助かっています」など、感謝のことばをかけていただき、恐縮しました。

周辺の国道は大変な渋滞となっていましたが、いくら時間がかかっても運ばなければならないものがたくさんあり、その一方でタクシーもトラック業者も引き受けてもらえないようなケースもすくなくないとのことで、当社の救援車両がお役に立てていると実感しました。
現地での交代時は宝塚のタクシーで移動しましたが、乗務員との方との会話のなかで、「うちも何か手伝いたいが、なかなか会社全体では動かない。MKさんはさすがですね」とおっしゃっていたことが印象に残っています。

横山社員(上賀茂営業所)

ニュースで震災を知り、苦しんでいる人のために何かしてあげたいと思っているところで、我が社が動いた。
ボランティア輸送をしようというのだ。さすがはMKと思う反面、道路が大渋滞しているなか、本当に役に立てるのだろうかとも疑問に思った。
上司から28日土曜日の晩に行ってくれと告げられ、疑問を胸中に持ちながら京都を発った。

私の担当は高校のときに修学旅行で訪れた宝塚市だった。
しかし、震災のあとはかつての印象とは全く違うものだった。
市役所の方の指示を仰ぎ、さっそく医師を付近の避難所へと運んだ。
夕方からは医師をセンターに送った。

センターで待機中に、大阪からボタンティアで来たといううどん屋に会った。
脱サラしてうどん屋をはじめ、自分のうどんをおいしく食べてもらいたいからここに来た、お金なんてあとからついてくる、という。
企業としての原点の考え方だと思った。
私の業務の場合、お客様に喜んで利用してもらい、感謝の言葉を最後に言われることが最高の幸せなのである。
これは我が社の目標とする考えで、今回のボランティア活動もそのひとつであることに気づき、自分の会社に誇りが持てるようになった。

福田職員(外商部)

私たちは、1月31日まで宝塚市で従事しました。
現地で倒壊した建物やひび割れた道路を見ると、あらためて気持ちが引き締まる思いでした。

市役所は多種多様な救援物資で埋め尽くされていました。
宝塚までは困れて来るまでにある程度選別されているようで、決められた場所へ整然と置かれていました。
食料品はじゅうぶんありましたが、風呂などは数が少なく体を洗うまでには一時間くらい待たなければならないと言っていました。
日中はかなりあわただしく、車の出入りが途切れることはありませんでした。
周辺はひどく混雑していましたが、職員・ボランティアの人たちの誘導で何とかなっていたようです。
手伝う場所によっては、まだまだ人手が必要な感じもしました。

国立大学病院の医師を送迎中、先生たちは行政の対応の遅さに対し、自分たちの院長の権限で動けていたらと残念がっていました。
どの程度役に立てたのかわかりませんが、これからもささいなことであっても被災地の方々の役に立とうと思った一日でした。

竹内社員(伏見営業所)

寒さのなか、夜は外で火を囲んで体を温め、昼は小さなテントで段ボールと毛布の中で身体を休めるといいます。
この時代で考えられることのできない生活をしている人々に、ただ「がんばってください」というしかできない自分の非力さが腹立たしいばかりでした。
自分も三年前に火事にあったときの人々のありがたさが思い浮かびました。
会社で神戸に行くという知らせが入り、すぐに神戸へ行くことを決めました。

救援車にべたべたとMKタクシーと貼ってあるのを見ると、少し残念な思いになりました。
自分からMKと言わなくても、もっとスマートな方法はあったのではないかと思います。
同乗した保健所の方が頼みもしないのに「京都から来てくださったMKタクシーですよ」と言ってくださいます。
トイレを借りに保健所に入ると、「京都のMKさんや」という声があちこちから聞こえてきました

小学5年生と中学1年生の子供を持ったお母さんにあったときは、自宅で用意してきた卵焼きなどを差し上げました。
「卵焼きがこんなにおいしいものとは思わなかった」と子供さんにとても喜んでもらえました。

今の時代、PRは大事ですが、時と場合によると思います。
PRをしなくても、良いことをすれば人々は必ず見ています。
会長、もっともっとたくさんの人々を助けてあげてください。お願いします。

久保社員 国道十条営業所

まだ現地でのショックが冷めませんが、現地の方々には本当に感謝されました。
あの混乱状態ですので、激務で疲れた方の交代や医師の巡回にたいへん重宝されました。
口々に長くやってほしいとの声をいただき、31日で終了となるのは残念ではあります。
今後も募集がありましたら、ぜひ協力したいと思います。

なお、現場で出会った御影タクシーの社員から「組合からの支援物資に感謝している。よろしく申し伝えてください」との伝言を預かりました。

おわりに

あれから28年の時がたちました。MKタクシー社内でも、阪神淡路大震災での無償タクシー派遣当時のことを知る人も少なくなってきました。
今や阪神淡路大震災のときにはまだ生まれていなかったという従業員も多数います。
あらためて、本記事を通じて大震災発生当時のことを知ってもらえたらうれしいです。

災害はいつ降りかかってくるかわかりません。
これからもいつかどこかで大災害があるでしょう。
そのとき、私たちはどういう行動を取れるのか。
今のMKタクシーを築き上げてきた先人たちに恥じない行動ができるか、しっかりと考えておきたいと思います。

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<阪神大震災28年>被災者気遣う 文通18年 - 読売新聞オンライン

<阪神大震災28年>被災者気遣う 文通18年 - 読売新聞オンライン

09.31
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 県立琴平高校の生徒有志が、阪神大震災の復興住宅に住む被災者らと文通を続けている。復興住宅で孤独死が相次いだ問題を知った生徒らが18年前、「自分たちにできることを」と始めた。日々のたわいもない出来事や趣味に、相手を気遣う言葉が並ぶ手紙は、コロナ禍でも途切れることなく届き続けた。(黒川絵理)

 今月10日、同校の教室で生徒約10人が集った。有志で作る同好会「とらすとK」が、毎月1回開く「神戸に手紙を書く会」。「香川でも雪がちらつきましたが、体調いかがですか」「年賀状をありがとうございました」……。どの生徒も真剣な表情で便箋に向かう。

 2年の女子生徒(16)は、神戸市の女性に宛て、修学旅行の思い出や年末年始の過ごし方をつづった。女性は以前、「若い時は今しかないから、 謳歌おうか してくださいね」と返信をくれたという。「温かい言葉に、こちらが元気をもらっている」と話す。

       ■   □

 活動は2005年、仮設住宅や復興住宅で転居を繰り返し、顔見知りがいないまま孤独死する問題を知った2人の生徒が始めた。同好会の名前には、英語で信頼を意味する「トラスト」と、神戸と琴平の頭文字の「K」を取った。「神戸と琴平を信頼で結ぶ」という願いをこめたという。

 「拝啓 神戸の方へ」。最初はそんな宛名のないの手紙を、復興住宅で見守り活動をしていたNPO「よろず相談室」(神戸市)に託し、高齢者らに配ってもらった。

 同NPOの牧秀一さん(72)は「届くのは公共料金の請求書だけという被災者が多い中、手書きの手紙で『私はあなたのことを気にしています』というメッセージが届くことは格別だった」と話す。

 やがて返信が届くようになり、文通が始まった。生徒が卒業すれば、新入生が文通相手として引き継ぐことを繰り返し、今、12人の生徒が神戸の約60人とやりとりを続ける。東日本大震災や熊本地震の被災者とも文通している。

 毎年2回程度、神戸を訪問し、交流会を開いたり、直接相手宅を訪ねたりもしてきた。コロナで20、21年度は訪問は途絶えたが、その間も文通は続いた。

       □   ■

 昨年7月、生徒らは2年ぶりに神戸を訪ね、復興住宅の集会所で交流会を開いた。生徒の乗ったバスを、文通相手らは外で手を振って出迎えてくれたという。

 神戸市中央区の須藤雅樹さん(65)は、震災で自宅が半壊、復興住宅に移り住んだ。2年前に転居した後も復興住宅で茶話会などの交流活動に取り組んできたが、コロナ禍で自粛を余儀なくされた。

 だが、その間も届いた手紙に「香川からも、関わりつづけてくれる若い子がいる。こちらも頑張らなければ、と励まされるような気持ちだった」という。昨年春以降、交流活動を再開しているという。

 活動してきた生徒はほとんどが震災後に生まれた世代。今月13日、メンバーは障害を負った被災者や、自宅を失い転居を繰り返してきた高齢者が語るDVDを視聴した。1年の女子生徒(16)は「たくさんの人が大変な思いをしたことがわかった。手紙を楽しみにしてもらえるなら、ずっと続けたいと改めて思った」と話した。

 とらすとKは昨年度、「高校生主体で被災者支援活動を続け、文通という文化を大切にしている」として、県のボランティア大賞を受賞した。牧さんは「被災者の高齢化は進み、孤立感は年々深まっている。自分に宛てた手紙の特別感は増している。これからも活動を続けてほしい」と話す。

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はじまりは地震2日後の電話相談 外国人被災者から1千件のSOS:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル

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10.31
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 28年前の阪神・淡路大震災では162人の外国籍住民が亡くなり、言葉や制度の壁のため、生活再建に苦労を抱える人が多くいた。それを支える活動が被災地で生まれ、「多文化共生」という言葉が社会に広まる一つのきっかけとなった。

 「地震の2日後に始めた電話相談が、はじまりです」

 一般財団法人「ダイバーシティ研究所」の田村太郎代表理事(51)は、1995年1月17日の地震直後を、ふり返って言った。

 23歳だった田村さんは、兵庫県伊丹市の自宅で被災した。高校卒業後に世界を放浪し、当時は大阪のフィリピン人向けレンタルビデオ店で働いていた。

 地震の翌日、同僚と車で店へ行った。商品棚がすべて倒れた店に、フィリピン人の常連客から「どうしたらいい?」と、次々に電話がかかってきた。

 神戸市内のガスタンクに亀裂が入って避難勧告が出たことを知り、現場近くに住むペルー出身の友人に電話をかけた。友人は避難勧告を知らず、慌てて自宅に呼び寄せた。

 日本人との接点が、ほとんどない人ばかりだった。

 これは何か動いた方がいい――。そう直感した。

日本人も外国人も 誰もが助け合い暮らすから

 参加していたボランティア団…

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1.17 再現/阪神・淡路大震災

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中井久夫さんが教えてくれたこと(1)心のケア やさしいまなざし、患者に、被災者に - 神戸新聞NEXT

中井久夫さんが教えてくれたこと(1)心のケア やさしいまなざし、患者に、被災者に - 神戸新聞NEXT

23.31
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 今年の「1・17」に、その人はいない。

 中井久夫さん。精神科医で神戸大名誉教授。1995年の阪神・淡路大震災では、全国から駆けつけた精神科医とともに傷ついた被災者を支え続けた。「兵庫県こころのケアセンター」(神戸市中央区)の初代センター長も務めた。

 昨年8月、肺炎のため、88年の生涯を閉じる。

 でも、日々の世界には今も中井さんが教えてくれたことが息づいている。

 今月初旬。神戸大学医学部付属病院(同市中央区楠町)を訪ねた。精神科病棟「清明寮」の外庭で、オリーブの木が黒い実を付けていた。

 小豆島から苗木が運ばれ、中井さんが成長を喜んだというオリーブ。2階の窓まで届くほど伸び、鳥たちがさえずっている。

 1994年に完成した2階建ての清明寮は、教授だった中井さんが細部までこだわった建物だ。

 「病棟とその庭は精神科においては唯一で最大の治療用具」。中井さんはそう言って、患者の居心地の良さを大切にした。

 当時の精神科病棟で多用されていた鉄格子は使わなかった。大きな窓、明るく広い廊下や病室。光を取り入れる中庭もある。

 外庭にはオリーブやクスノキ。春にはサクラやコブシが花をつける。

まず、被災者の傍にいることである 「災害がほんとうに襲った時」(みすず書房)

 あの震災。清明寮は、全国からボランティアとして駆けつけた精神科医たちの「基地」になった。そこは指揮所、仮眠室、食堂。彼らは夜は寝袋に潜り込み、朝になると避難所へ。被災者の声に耳を傾け続けた。

 「まず、被災者の傍にいることである。それが恐怖と不安と喪失の悲哀とを安心な空気で包むのである」。年長だった中井さんの考えは一貫していた。

 以降、災害の被災地に精神科医の姿は珍しくなくなった。いち早く心のケアに取り組む「災害派遣精神医療チーム(DPAT)」の仕組みもできた。その源流をたどれば、やはり28年前の神戸の活動に行き着く。

だれも病人でありうる、たまたま何かの恵みによっていまは病気でないのだ 「看護のための精神医学」(医学書院)

 中井さんの文章にある。

 「『だれも病人でありうる、たまたま何かの恵みによっていまは病気でないのだ』という謙虚さが、病人とともに生きる社会の人間の常識であると思う」

 例えば「こころのケアセンター」の相談室。部屋にはいすがあるが、「目線を対等に」という中井さんの考えから、医師用と患者用は全く同じものを使っている。医師のいすには背もたれがあり、患者は簡易ないす-そんな見慣れた風景はここにはない。

 相談室の壁も「黄色は落ち着くから」と、ほんのりと黄色い壁紙が選ばれた。患者を見つめる優しいまなざしがそこにある。

 もしも、中井さんが神戸にいなかったら-。心のケアは今のように広がっていなかったかもしれない。巡り来る季節に、中井さんが残したメッセージを見つめたい。

なかい・ひさお】1934年奈良県生まれ。甲南中・高、京都大卒。東京大や名古屋市立大を経て、1980年から神戸大医学部教授。統合失調症研究の第一人者で、「風景構成法」と呼ぶ絵画療法に取り組んだ。文筆家としても多くの業績を残した。阪神・淡路大震災では、いち早く被災者の心のケアの必要性を説いた。97年から神戸大名誉教授、甲南大教授。2004年には「兵庫県こころのケアセンター」の初代センター長に。13年に文化功労者。

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