《追悼》『日本のいちばん長い日』著者の半藤一利は、あの「8月15日」をどう過ごしたのか? - 文春オンライン

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 昭和史研究の第一人者であり、『日本のいちばん長い日』や『ノモンハンの夏』などの著作でも知られる作家の半藤一利さんが、1月12日、東京都世田谷区の自宅で亡くなりました。90歳でした。

「文春オンライン」では、戦後74年を迎えた2019年夏に、半藤さんの“原点”に迫るインタビューを行っていました。少年時代に東京大空襲を経験し、火の海となった町を前に、半藤さんは何を思ったのか――。当時の記事を再公開します。(初公開:2019年8月15日。記事中の肩書・年齢等は掲載時のまま)

 かつて太平洋戦争の開戦に興奮し、日本の勝利を信じて軍需工場で働いていた14歳の半藤一利氏は、東京大空襲の惨劇によって「人間性を失う」ほどの衝撃を受けた。それから5ヶ月後、半藤氏は終戦の日、8月15日を迎えることになる。

 のちに『日本のいちばん長い日』において、日本中枢における昭和20年(1945年)8月15日正午までの24時間を描くことになる半藤氏も、そのときはまだ一人の中学生に過ぎなかった。その日、“半藤少年”はどんな1日を過ごし、何を思ったのか。半藤氏にとっての「8月15日」を聞いた。

取材・構成=稲泉連

(全3回の3回目/#1#2から続く)

◆◆◆

 3月9日から10日にかけての東京大空襲のあと、火がおさまってから私は通っていた中学校に行きました。働いていた軍需工場は焼けてしまいましたが、隅田川沿いの一部に焼けなかった地域があって、七中はちょうどその場所にあったからです。

 そうすると、校庭にいた大人に「いいところに来た」と言われましてね。軍手を渡され、「これから焼け跡整理に行く」とトラックに乗せられました。

 

焼け焦げた遺体をトラックの荷台に乗せていく

 行ってみると、「焼け跡整理」とは要するに遺体の整理のことでした。この空襲では約10万人という人が亡くなりましたが、そのときはそれほど多くの人たちが死んでいるとは思っていませんでした。しかし、いたるところに焼け焦げた遺体が横たわっており、やはり私は無感動にそれを眺めていました。

 大人たちと一緒に焼け焦げた遺体をトタンに乗せ、トラックの荷台に乗せるという作業を、私はただただ何の感情も抱かぬまま続けていました。しかし、作業を始めると次から次に想像を絶するほど遺体が出てくるのです。2、3人をトラックに乗せた時点で、見るに見かねた大人に「おまえたち子供はもうやめろ」と言われ、軍手を返して家に帰ったのを覚えています。

 おそらく警防団か何かの人だったのでしょうね。こんな惨憺たる作業を子供にやらせたら、トラウマになってしまうと彼が思ったのであれば、それはそのときかろうじて残されていた人間の心であったと言えるかもしれません。

 

スカイツリーが建っているあたりには死体置き場があった

 とにかく焼け跡にはもう遺体がいたるところにありました。そして学校の校庭や小さな公園には集められた遺体が並べられ、生き残った人々が身内の亡骸を探して歩いていました。私自身が見たわけではありませんが、亀戸の駅などは死体の山だったそうです。深川や本所もそう。隅田川の言問橋の上なども悲惨だった。いまスカイツリーが建っているあたりは、まさに当時の死体置き場があった場所です。

 また、隅田川に飛び込んで、溺れ死んだ人々も多くいました。北十間川あたりでは、敗戦から2年も経ってから遺体が浮いてきたという話を聞いたことがあります。空襲の死者の数が正確には分からないのは、一家全員が亡くなった家族もいるからです。もちろん氏名の分からない人も大勢で、まったく無残としか言いようがありませんでした。 

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