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私の台湾研究人生:香港からペンネームで「江南暗殺事件」を書く - Nippon.com
台湾・国民党の独裁体制の転機として歴史上、名を残している1984年の「江南暗殺事件」。米在住の華人作家が、指導者・蒋経国の伝記執筆を原因に、台湾の特務機関が派遣した殺し屋によって殺害され、米FBIが捜査に乗り出した事件だ。筆者は、香港勤務中に事件の発生を知り、台湾・香港で事件の成り行きに注目した。
中英共同声明直後の香港に滞在する
前にも触れたように、先輩の推挽(すいばん)もあって日本国香港総領事館専門調査員に採用され、1985年1月から翌年3月まで香港に勤務した。下の息子はまだ1歳だったので、家族帯同での滞在を終えて帰国しても全くその間の記憶が無い。何年かして、食卓で香港の思い出で盛り上がると、「僕わかんない」と泣き出すようになった。それはかわいそうだというので、香港の記憶を共有するために3泊4日で香港に観光旅行に出掛けたことがある。時々思い起こす楽しいエピソードである。
香港勤務の間、台湾には二度出掛けた。古いパスポートをひっくり返すと、一回目は5月20日から27日、二回目は11月12日から19日である。前者は前年秋から当時台湾政局と米台関係の焦点になっていた江南事件(後述)についての取材、後者は台湾地方選挙取材(11月16日投票)が目的だった。
今回から3回ほどこの香港滞在中の台湾研究関係の思い出を書きたい。ただ、ひとこと香港のことにも触れておきたい。私が香港に着任したのは、前年12月19日に香港の地位に関する英中交渉がまとまり、香港に関する中英共同声明が発表された直後であった。1997年7月1日香港島、九龍、新界一括の中国返還、中国は香港の「高度自治」を認め「一国家二制度」のアレンジメントを採用し、2047年までの50年間変更しない、というのが骨子であった。中国返還への過渡期に入ったばかりの香港に私は滞在することになったのであった。
過渡期に入ったということで、中国への香港返還を見据えながら、英国当局は区議会の設置と普通選挙など香港住民の政治参加の拡大に乗り出し、それに反応して幾つかの民間団体も出現し始めていた。私にはこの際香港研究にのめり込もうという気持ちはなかったが、すでに同時代台湾の「下からの民主化」の動きに興味を引かれていたので、こうした団体の関係者に会って話を聞いたりもした。
1年3カ月ほどの滞在を終えて帰国したのだが、ちょうど香港の過渡期に滞在していたのだから何か話せということで、大学の先輩グループのランチ・オン・トークに呼ばれて簡単な話をした。実はどんな話をしたのか具体的なことはほとんど記憶していないのだが、席上いわば「お叱り」を受けた一つの論点だけは覚えている。確か、中国の姿勢から見て香港の民主化の展望は明るくないということを語る中で、結局香港返還というのは、植民地統治者がロンドンから北京に代わるだけのことではないのか、と最後に言ったことに「お叱り」が来たのである。
「お叱り」の論点は、まあもっともと言えばもっともなものだった。曰く、①「一国家二制度」、「五十年不変」の約束は、中国自身が経済発展のため香港の機能を必要としているのだから信用して良い、②香港人の経済志向の人たちであり政治には関心が無い、だから民主化云々は香港を追われる英国が格好を付けているだけである。これらは、当時の事情通の主流の見解だったと思う。中国共産党が香港政治の民主化を望んではいないという当たり前の事実から「支配者が代わるだけ」という私の言い方もあまりに飛躍していたのかもしれない。だが、それから三十数年、①も②も全く変わってしまった。不変に見えるものも変わる時は変わってしまうのである。今香港には自由と民主を最も切実に求める市民がいるが、共産党は民主化を望まないという「当たり前の事実」は鉄の壁となって彼らの前に立ちふさがり、米中「新冷戦」の始まりを確実のものにしているかの如くに。
ただ、振り返ってみると、当時、物事は変わる時には変わるのだ、という時代に入っていたのは、まだ香港ではなく、台湾のほうだった。私はその台湾を、飛行機で1時間の距離の過渡期に入った英領植民地から観察することになったのである。台湾も、そして30数年後の香港も変化の鍵はいずれも「民主」だった。
「台湾ニュースの読み方」を覚える
台湾政治の「情況に入る(進入状態)」ための「三点セット」のうち、「人に会う」と「選挙を見に行く」は、1983年までに何とか実践できた。残るは「ニュースを読む」だった。「ニュースを読む」には、例えばなぜ、この人物の言動・行動が報道されるのか、毎日のニュース記事は必ずしもそのコンテキストを記すわけではないから、その人の名や関連人物の名がどうしてその記事の中に出てくるのか、それをある程度了解できるようになる必要がある。
インターネットで世界中のニュースを読むのが当たり前の現在では信じられないかもしれないが、私は当時すでに観察記事や研究ノートのようなものを発表していたのに、まだ台湾現地の新聞を経常的に読んではいなかった。東京で台湾紙を購読するのは結構な費用がかかったのが最大の理由である。各種雑誌をまめに読み、新聞は台湾に来た時に数紙に必死に目を通した。
ところが、香港総領事館に来ると、英字紙・漢字紙を問わず現地新聞各種と、『中国時報』、『聯合報』、『自立晩報』の主要紙と、確か『台湾時報』も購読していて、自由に切り抜きをすることができた。台湾紙は午後に届いた。もちろんAsian Wall Street Journal, Washington Postといった英字紙やTime, Newsweek, そして現地のFar Eastern Economic Reviewなどの週刊誌も読み放題であった。
そして、香港に着任するや、これらのメディアで大量に報道されていたのが、江南事件に関わるニュースであった。当時、専門調査員はオフィスにいる間はこれらの新聞・雑誌を読むのが仕事であったと言ってもよかった。私にとっては、江南事件は「ニュースを読む」の実践の格好の自己訓練の題材であった。前記のように大量にニュースを読み、香港人や台湾人に会って話を聞き、また総領事館の中国通が昼飯時などに傾けてくれる蘊蓄(うんちく)に耳を澄ませた。
江南事件
江南というのは人名で、ヘンリー・リュウ(中国名劉宜良:中国江蘇省生まれ、当時52歳)という米籍華人の筆名の一つである。1984年10月15日、その彼がサンフランシスコ郊外の自宅で3発の銃弾を受けて暗殺された。彼は江南の名でその前年より米国の華字紙に連載していた『蒋経国伝』を、殺される前月に単行本で出版したばかりであった。すぐさまこの出版に関わる政治的殺人だろうとの観測が出た。この本は、正確な月日は思い出せないが私も割に早い時点で入手して目を通していたが、殺されるほどの内容とも思われなかった。後の情報を読み進んで分かったことだが、リュウ暗殺の誘因は『蒋経国伝』というよりは、これから書くだろうと予想された『呉国楨伝』を阻止することにあったようだ。呉国楨(1903-1984年)は国民党政権台湾逃走初期に台湾省主席をしていた親米派の政治家で、蒋経国の政敵でもあり、政治警察を握っていた蒋に追われるようにして50年代中頃に米国に亡命していた。リュウはその呉と接点があった。晩年は中国に接近していて、それまで公に語ることを控えていた蒋経国に都合の悪い事を、リュウを通じて語るのではないかと台湾の情報筋で懸念されたというのであった。
事件はFBIがすぐさま捜査に乗り出し、まもなく台湾からやってきた陳啓礼ら「竹聯幇」という台湾の「黒社会」(ヤクザ集団)の幹部3名によるものと発表され、そのうち台湾に帰っていた2名が、「掃黒」(ヤクザ一斉取締)の名目で逮捕されたが、12月5日にはNew York Timesが蒋経国の次男蒋孝武(1945-1991年)が事件の背後に絡んでいる疑惑があるとの記事を掲載した。年が明けて、任務を果たして帰国後闇に葬られることを恐れた陳啓礼が在米の仲間に残した犯行経過を述べた録音テープなるものをFBIの側が入手し、それとほぼ同時に彼らに指示を与えたとされる国防部情報局の局長汪希苓ら3名の幹部の逮捕と軍事法廷送りを蒋経国が指示した。
私が香港に赴任したのは、米捜査当局、台北の国民党当局、そして自己防衛しようとする竹聯幇の三つ巴の駆け引きが、関係者の逮捕によって、決着に向かおうとしている頃に当たる。その後、国民党当局側がヘンリー・リュウは台湾側、中国側、そしてFBIにも情報を提供する三重スパイであることを示唆するヘンリー・リュウの「情報通報書翰」7通を香港誌『九十年代』に暴露するなどの反撃に打って出る一方、米議会では武器輸出法1982年修正条項(米国市民に一貫したパターンを持つ迫害を行う国家に対して大統領に武器輸出を停止する権限を付与する)の台湾適用が取り沙汰され公聴会が開かれるなどの展開があって、国民党当局は、結局対米対世論を意識して汪希苓らの軍事法廷も完全公開とするとともに、彼らの関与が個人的なものであるとして断罪して、幕引きとしたのである。米議会は下院外交委員会で公聴会を開いたものの、前記修正条項を適用するとの結論は出さなかった。こうして85年4月中には事件は沈静化していったと言える。
私の「取材」活動
香港滞在の途中まで、私は断続的に日記を付けていた。その日記を、最近書庫を整理していて発見したのである。それまではすっかり忘れていた。それを見ると、江南事件関係は割と小まめにメモしている。こうした活動も一種の「取材」だろう。この日記を頼りにこの時の「取材」活動の一端を記しておこう。
2月初め、総領事館の同僚の紹介で呉鴻裕さんという人と長電話。呉さんは複雑な経歴を持つ台湾出身者で、総領事館の「キャリア」組が「勉強会」と称して時々昼飯を食べつつ、いろいろ(まさにいろいろ)教えてもらう会合をしているという。私も仲間にしてもらおうと挨拶の電話を入れたのである。日本統治時代の生まれなので、くせの無い見事な日本語を話した。長電話で話題は江南事件にも及んだらしく、日記には呉さんが「(この事件は国民党)政権の命取りになるかもしれない」と言ったと記してある。確かにそうだったが、どのようにそうなったか、ならなかったのかは次回に考えてみよう。
2月下旬には香港に来たらぜひ会いたいと思っていた『九十年代』の李怡(1936−)編集長に会った。これは確か当時共同通信特派員で来ていた坂井臣之助さんの面会に合流させていただいたのだと記憶する。『九十年代』は二月号に前記のヘンリー・リュウ氏による「情報通報書翰」7通を掲載したばかりだった。日記には李氏が30数年来リュウを知っているという友人の話として、「ソ連が寄ってくればソ連に情報を売るという奴、ああいう殺され方をしても少しも不思議に思わない」との言を紹介したと記している。私の日記はまたヘンリー・リュウ氏の「情報通報書翰」発表直後、総領事館のベテラン調査員の「米国で情報活動する者は、米の機関がマークしているから、中国側も目を付ける、したがって、三重スパイは大いに有り得る」との言を記している。事情通の見方は一致したわけだ。
後述の台湾訪問時に訪ねた費希平(1917-2003年)氏は、「ヘンリー・リュウは『情報屋』(情報販子)だ、『蒋経国伝』も金のために書いたのだ』と言っていた。ヘンリー・リュウ氏が国民党関係の「センシティブ」な人物や事柄をあえて書くのは、何も何らかの立場に基づく批判の言論なのではなくて、一種のゆすりであり取引材料であったと言うのが、私の中で定着した江南イメージとなった。香港滞在中、私が中国理解の頼りにしていたベテランの中国通の外交官は、ヘンリー・リュウの人物については「まともなもんじゃ無い」「チンピラ」と切って捨てていた。しかし、そんな「チンピラ」の事件が大騒ぎになるのは、米国の華人社会への影響力をめぐる国民党と共産党の争いが背景にあるからだ、というのが当時の彼の見立てであった。今やもう「時効」であろうから、ついでに書いておくと前述の費希平氏は、決してあからさまに言わなかったが、「彼はまだ若いからね」といったような言葉の端々から江南事件に蒋孝武が絡んでいるのを疑わない様子であったのを印象深く覚えている。
王崧興先生、康寧祥氏と再会
3月下旬には王崧興先生と再会した。王先生は、初めての訪台でお世話になった方で、その時ふと漏らした「蒋介石は良いところに逃げてきた」との述懐は忘れられない。先生はその後、台湾の中央研究院から千葉大学に移っておられた。この時は香港中文大学で「両岸三地」(中国、台湾、香港)の社会学者・人類学者の中国家族に関する会議に出席するために来港したのであった。会議の目玉は、文革後に復活した中国社会学会の代表的学者の費孝通(1910−2005年)が中国代表団を率いて出席したことだった。私も会議を傍聴させていただいた。費孝通の話はどうもその話し方が中国のお偉いさん口調で、著書を読んだ時のイメージからかけ離れていて失望したが、会議後王先生の紹介で台湾の社会学者の蕭新煌(1948−)氏や文化人類学者の陳其南(1947−)氏と知り合えたのは、その後の台湾研究人生に益するものとなった。
同月末には康寧祥氏と再会した。前にも書いたように康氏は1983年選挙で落選してから米国に研修に行っていて帰国の途次東京を経て香港にやってきたのである。いわば米国帰りなので江南事件についても米政府と華人社会の動向の話が新鮮であった。米政府は国民党政権のやり方は“stupid”だとして強い不快の念を持っているが、しかしあまり強い打撃を与えると対中関係でバランスを失するというディレンマを抱えている、と見立てていた。華人社会に関しては、事件の推移につれて、政治的傾向ごとに対応が違うことを具体的に説明してくれた。事件発生直後はほとんどの華人団体が抗議の姿勢を示したが、関係者が逮捕されて事件が国民党に不利な展開を開始すると親国民党系が手を引き、ヘンリー・リュウの「情報通報書翰」が公表されると中立系が身を引き、事件を取り沙汰し続けるのは親北京系のみとなった。一方台湾人団体、特にFAPA(台湾人公共関係協会)などは、民主化推進に役立つと判断して前記武器援助法1982年条項の適用を巡る議会公聴会実現のためロビー活動を展開するようになった。
訪台取材
5月20日から27日の間、台湾取材に出掛けた。年一回しか出張は認められないので、確かこれは休暇を取り自費で出掛けた。
日記によれば、台北に着いた日に早速、謝明達氏と会っている。江南事件に関する彼の話の重点は、事件は4月の汪希苓ら3名の軍事法廷公判が公開で行われたことで、もう政治的には台湾では終わりになっているという点だった。事件について台湾の外で語られていることは台湾でも全部語られており、台湾内部では海外のようには国民党政権の打撃にはなっていない、というのが彼の見立てであった。
それから、康寧祥氏の紹介とアレンジで、前記費希平氏を台北市郊外の「大湖山荘」に訪ねた。費氏は外省人で第一期立法委員、つまりは「万年議員」だったが、「党外」勢力の一員として当時は重きを成していた。「大湖山荘」とは政府が「万年議員」のために作った団地である。費氏の話では事件に出てくる人物論が参考になった。蒋孝武についてはすでに触れた。汪希苓は情報機構の要職だが何の教育も無い、功名心にはやり、ご主人のために何かをしたい、これが唯一の思想なのだ。費氏からこうした感触を伝えられたのは当時の私にとってはたいへん貴重な経験だった。
その他、台北では、文芸誌『台湾文芸』を後援していた陳永興(1950-)医師(後に「二二八和平日促進会」リーダー)や作家の陳映真(1937-2016年)氏にも会った。陳映真氏には、政治犯として投獄されたこともある同氏が外国渡航解禁となった後、東京に寄った際に戴國煇先生の晩餐に陪席した時に知り合っていた。日記の記述は不完全でどういう話を聞いたのか残念ながら復元できない。
ペンネームで江南事件を書く
江南事件は米国で発生した事件だが、私は香港に来て事件に遭遇した。当時大学の先輩の近藤大博さんが『中央公論』の編集部にいて、4月中に香港まで電話をかけてきて、江南事件について書かないかという。もちろん勇んでお引き受けした。おそらくは訪台取材もこの依頼があってから発意したものだと思う。台湾から戻って執筆に着手し、83年選挙観察の時と同じ「磯野新」のペンネームで『中央公論』85年8月号に発表した。近藤さんが付けたタイトルは「三重スパイ(?)江南暗殺事件の怪」で、タイトルには<大型ドキュメント>の語も入っていた。この言葉通り、400字100枚という長編の注文だったのである。近藤さんはまもなく同誌編集長になって活躍されたが、転換期にさしかかった時期の台湾政治についての私の論壇への発信も後押ししていただいた。ペンネームにしたのは主として当時の総領事館勤務という立場を考慮してのことだった。近藤さんにはしきりにあれは誰だという問合せがあったということであるが、もちろん彼は明かさなかった。総領事館の人は分かっていたようで、分かっているよということをにおわせはしたがそれ以上は何も言わなかった。ペンネームの由来は、当時私が住んでいた相模原市の地名「新磯野」をひっくり返しただけであった。
バナー写真=磯野新「三重スパイ(?)江南暗殺事件の怪」(『中央公論』1985年8月号)(筆者提供)
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August 09, 2020 at 07:00AM
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