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ネタバレ談話第2回『ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX』 ポケモンになった私が、ポケモンたちをますます愛しく思う理由 - IGN JAPAN
ゲームをひとつ取り上げて「ネタバレしてでも語りたい、素晴らしい瞬間」を紹介するこの企画。今回は『ポケモン不思議のダンジョン 救助隊DX』を取り上げる。執筆は同作のレビューを担当した山田。
以下では『ポケモン不思議のダンジョン 救助隊DX』のネタバレが含まれる。
数年前、ポケモンの映画を劇場で見ていたときのことだ。スクリーンの中のトレーナーがダイケンキを出したのに対抗して、主人公のサトシはポカブを繰り出した。同時に、客席の子供からこんな声が漏れた。「無理だろ」。私もそう思った。
長らく続く「ポケットモンスター」は、ポケモンという架空の生き物が存在する世界設定と同じくらいに、ゲーム内で適用されるルールもまたプレイヤーに広く親しまれている。
ポケモンのタイプ相性、そしてバトルのノウハウはポケモンシリーズに少しでも触れたことのあるプレイヤーにとってはすでに物語を生成させる装置として機能する。先ほどの子供も、水タイプの3段階目の進化形態であるダイケンキと炎タイプの第1段階目のポカブとの戦闘をゲームの仕様から想像し、スクリーンでは映し出されていない瞬殺の物語を想起したからこそ、「無理だろ」とつぶやいたのだ。
ちなみに、今回紹介する『ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX』にはポカブもダイケンキも登場しないので、その点にはご留意いただきたい。
テキストの隙間に隠れる、システムによって想起される物語
かように物語は、テキスト以外のもの、物語が紡がれていない場所にさえ出現する。既知の情報によって、私達は背後にある物語を、ある程度の共通認識として想像してしまう。ゲームという複合的かつインタラクティブなメディアならなおさらだ。ゲームシステムや演出によって、プレイヤーが思考し、コマンドを入力する間に想起されるものもまた、ゲームにおいては物語の一部なのである。
その意味で、「ポケットモンスター」というIPは、共有される前提を積み重ねた歴史も関連コンテンツも膨大であるがゆえに、テキストの隙間に現れる非言語的な物語をいかにして紡ぎ直すか、その営みが繰り返されてきた作品でもある。
『ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX』は、いわゆる「不思議のダンジョン」をポケモンの設定で再構築した作品であるが、今作の設定の特徴として、「主人公もポケモン」であり、「ポケモンだけが住む世界」が舞台である点が挙げられる。
ポケモンだけが住む世界を描く作品は、たとえば劇場アニメの短編作品やWiiで発売された『ポケパークWii 〜ピカチュウの大冒険〜』など、それほど珍しいものではない。前者ではポケモンは人語を喋らずにナレーションだけで進行するが、後者はポケモン同士で人語の会話を交わす。どちらもアニメ版に準拠した鳴き声を発するという共通点はあるが、その多彩なアプローチの仕方は、動物を扱ったドキュメンタリーと少し似ている。彼らの生態から彼らの思考を人間側に引き寄せ、言語によってどうにか、プレイヤーはポケモンたちの思考を理解しようとする。ゲームで知った特徴やタイプ相性などから、こんな風に彼らが生活していたらいいなと願望を込めて。それは人間の言語と思考に基づいた、勝手な想像に過ぎない。
普段の私達は彼らを捕まえ、戦わせているのに。彼らが可愛くてどうしようもなく理解したい気分と、その戦わせる行為はびっくりするくらい矛盾しているようにも見える。その矛盾もまた、収集とバトルというポケモンシリーズの根幹にあるゲームシステムと、ポケモンという生き物に感じてしまう愛着とのあいだに生まれた、プレイヤーの中の無数の物語の一部だ。
人間が特権的な存在であるという前提のもと、動物を愛する一方で動物を支配し、ときには食するという態度から逃れられない以上、ポケモンと人間との関係もまた、矛盾と欺瞞に満ちたものになってしまう。ポケモンは、とても不自然な存在だ。ポケモンというIPがさまざまな分野に広がっていくにつれ、その不自然さを説明をしようとすればするほど、不自然さはどんどん深まっていく。でも、私達はポケモンを愛している。それは間違いがないことだ。そして『ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX』は、プレイヤーキャラたる主人公にアクロバチックな設定を持ち込むことで、その相克に対するひとつのメッセージを浮かび上がらせる作品となっている。
元人間のポケモン、という設定が生み出す特殊なドラマ
『ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX』が他のポケモンIP関連作品と違う点は、プレイヤーの分身たる主人公は、どうやらもともとは人間だったらしい、ということだ。ある日目を覚ましたらポケモンになっていた主人公は、自分が人間だったという以外の記憶を失って、今日からポケモンとして生きていかねばならない。そして主人公は、自身の第一発見者であるパートナーのポケモンとともに「救助隊」を結成し、ダンジョンの奥で救助を待つポケモンたちを助け、各地で頻発する自然変動の原因を突き止めていく。同時に、パートナーのポケモンに導かれて、ポケモンのコミュニティに参加した主人公は、たくさんのポケモンと知り合い、彼らの力を借りていく。
幅広いユーザー層が見込まれるポケモンのスピンオフ作品ということで、「不思議のダンジョン」シリーズとしては同作はゲームプレイをしやすくするための非常に多くのシステムが盛り込まれているが、ポケモンのコミュニティであり攻略のために必要な施設が揃う「広場」と仲間にしたポケモンが住まう「キャンプ」は、ゲームプレイの要とも言える場所だ。アイテムを買ったり、お金を預けたり。仲間にしたポケモンのステータスを上げたり。ダンジョンから出てくるたびに主人公はここに戻って来て、いつしかアイテムもお金も蓄積され、冒険の基盤ができあがっていく。
しかし中盤、自然変動の原因が「キュウコンのしっぽを触った者に降りかかるたたり」と関係があるらしいと推察されると、主人公の立場は一変する。どうやらそのたたりの原因を作ったのは人間で、その人間は今、ポケモンになっているらしい、と。つまりは主人公こそが、この自然変動の原因なのではないか、と広場に住むポケモンたちは考えるに至る。自然変動を終わらせるために、主人公をこの世界から消してしまえばいい。
そのことを察したパートナーは、主人公とともに終わりのない逃避行に身を投じる。ほかのポケモンから、主人公を守るために。広場とダンジョンのルーチンとしてこのゲームを理解し始めていたプレイヤーにとっては、この展開はまさに青天の霹靂ともいえる衝撃と、そしてゲーム攻略上の難しさを同時に提供する。ゲームシステムの開示とその制限が、持ち物も何もかも自宅に置いて遁走せねばならない切なさと過酷を、体験として再現しているのだ。
ダンジョン内のショップやアイテム集め用の低難易度のダンジョンなどの救済措置はあるものの、この逃走中は、主人公とパートナー以外の、キャンプにいるはずのポケモンをダンジョンに連れていけなくなるし、広場で使用していたアイテムショップも銀行も何もかもアクセスできなくなる。
この喪失感は、「自宅に帰れなくなる」という感覚の再現としてはかなりうまく機能しているように思う。つい先日この世界にポケモンとして目覚めた主人公でさえこうなのだ。いわんや、ずっとあの広場周辺で暮らしていたパートナーの心中をや。
なぜポケモンは、人間と一緒にいてくれるのか
パートナーと主人公にはさしたる関係性はない。古い知り合いでもないし、親類縁者でもない。たまたま主人公が目覚めたときに、パートナーがそこにいただけだ。けれどもパートナーは主人公のためにすべてを捨てて一緒に逃げる決意をする。主人公が現れたことで、「救助隊を結成する」という夢が叶ったからだ、と言って。
正直、私はパートナーに、申し訳ないな、とずっと思ってしまっていた。私に付き合う必要なんてないのに。自分一人じゃどうしようもできないけれど、でも君がそんなに……全部を捨てて私と一緒に来ることなんてないのに。私はもしかしたら本当に、この自然変動の原因かもしれないのだ。キュウコンのしっぽを不用意に触った人間のトレーナー。
そこで私は、ここで言う「人間」が、このゲームを遊んでいるプレイヤーという意味の「人間」ではなく、ポケモンというゲームの世界の「人間」であることに気づく。だからこの、「人間になったポケモン」という設定には二重の意味でのフィクションが存在している。
私が、主人公が、もともとポケモンのトレーナーだったとするならば。
そして私はさらに気づく。いつだって、ポケモンはそうだったじゃないか、と。トレーナーに対して、こんなふうに、どうしてなんて考える余地もないくらいに一生懸命、彼らは一緒にいてくれる。
通常のポケモンシリーズでは当たり前に受容している、ポケモンが自分のために戦ってくれるという状況は、こんなにも無茶苦茶に理不尽で、理屈に合わないことで、――ポケモンになってみて、それははじめてわかるのだ。
ポケモンが一緒に旅をしてくれることはゲームデザインとしては当たり前だけど、ぜんぜん当たり前のことじゃない。プレイヤーはその健気さに甘えているけれど、彼らはたぶん、どんな見返りでもあがなえないほどに、いつもすべてを投げうっている。願わくば彼らが幸福であるようにと思うけれど、幸福というものを強要する人間的な態度もまた、ポケモンを一方的に愛している我々の傲慢かもしれない。
ポケモンという存在は矛盾だらけだ。ゲームのために作られたいびつな存在。その解釈の作業が、ポケットモンスターという作品のアニメ化であったし、25年間積み重ねてきてもなお、というか積み重ねてきたからこそ、その矛盾は決してなくならない。
でも、確かに言えることは、プレイヤーの愛情が、ポケモンという存在の矛盾を維持したままで、そのありようを強固にしているということだ。トレーナーとポケモンという関係の中で、ポケモンは存在している。
だからせめて、ゲームを遊んでいる間は、彼らがほんとうに生きていることを、忘れないでおこう。
パートナーとの逃避行を終えたとき。主人公に降りかかった疑惑が晴れたことを、パートナーが自分ごとのように喜んでくれたとき。もう一度、広場を使えるようになるというゲームプレイ上の安心感とともに、ポケモンという存在への愛着もまた、プレイヤーの胸に去来していたはずだ。
"一緒に来る" - Google ニュース
April 12, 2020 at 01:00PM
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